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新国立劇場「こうもり」 ~ 気の抜けたオペレッタの王者 [新国立劇場]

fledermaus.jpg12月9日・新国立劇場・4階上手D席
本年のオペラ公演の掉尾を飾る国営歌劇場でのオペレッタに一面では相応しく震災の年を象徴の事故から半年以上を経てなお未収束の放射能禍への懸念による本興行の唯一の呼び物とも言える往年の名メゾ歌手夫妻の来日拒絶との痛打によって偶然ながら本作の初演直後の帝都に襲来の大恐慌の憂き世から聴衆を現実逃避に誘う「忘れる者こそ幸福」との台詞で旧年を閉じようとの主催劇場側の意図は見事に粉砕の列島に襲来の世界史的災厄の厳然とした事実の再確認の逆効果に作用しつつ歌手陣・指揮者・演出の三拍子揃って義務感が先行の4日目の平日マチネへ参戦。果たして公爵役の降板はお門違いながら代役はやはり代役の域、内外ともに本来配役は二戦級の陣容、本劇場の常連指揮者の洒脱とは対極の音楽によって帝都を代表のオペレッタの妙味は雲散霧消の却って客席での苦痛感を強制の出来映えに初役と言う半年前の「コジ」では好感の公証人役の主役にはあまりに弱体な押し出しと若手指揮者の作曲家の生前当時には一時は敵対国の帝都の本拠地には相応しいとも思える無骨で人工的な伴奏を筆頭に結果的には看守役以外の来日組の習練場としてのみの上演意義とも愚考に象徴のオペレッタに無理解な陣容編成に唖然感。カーテンコールも早々に贔屓作だからこそ本公演こそ忘れたいとの観念を胸に前々月に続いて抜粋ながらまたしても「プリターニ」に挑戦との若手公演に向けて劇場を後にしました。
  「この婆々もあの人も無き年わすれ」 昭成
アフターシアターは、従って省略。

新国立劇場「ルサルカ」 ~ 群青の魅力に陶然の舞台美術 [新国立劇場]

rusalka.jpg12月3日・新国立劇場・4階正面後方C席
前月の主催劇場による2度の啓発兼販促行事による断片または関連情報の他には結局は目論見とは正反対に手許の舞台映像も未視聴のままに本作の全くの初心者として週末マチネの4日目へ参戦。事前行事からは聴覚上は控え歌手での講師のピアノ演奏による序曲の断片、外題役の有名独唱曲、魔女の呪文歌、王子の求婚歌に加えて講演資料的に紹介の各数分間での本演出の初演劇場で収録の上演映像、視覚上は専ら本公演のために来日指導の英人制作陣が用意の舞台美術の模型写真と装置画像を通じた認知のみを前提に全曲の拝見に臨めば専ら今秋の連戦疲労と予習不足に起因の睡魔の襲来に抗戦しつつ聴覚では8年前の「花嫁」以来の2度目のチェコ語作品での大詰には少女から失恋経験を経た婦女への変貌を未来への希望も醸成の成長感も表出して歌い上げた外題役を筆頭に各々の配役の特徴に見合った5人の外国人歌手の歌唱には従順に拝聴と同時に視覚では事前行事での予習の印象が増幅の本劇場で3作を演出の仏人照明家で強烈な印象の邦人の色彩感覚では再現が不可能とも思える透明感に優れて濃淡の度合いも精妙な青色の表現の上に同一線上での中欧の自然を象徴の森林を表出の碧色が脳裏に刻印の一方でお伽話の形式を採りつつも主人公の悲劇が強く印象付けられて日程の都合とも思いながら先行2公演を脇へ追いやる今楽季の開幕演目に相応の高水準の出来映えと拝察。演出家には30年来の愛好曲との作品ながらイタオペ派には再聴意欲に未到の音楽的魅力の発見不能に帰着の鈍感な感性のために帝都産以外のハプスブルク物への開眼の機会を今回も逸して劇場を後にしました。
  「寒水や青に碧に色気立ち」 昭成
アフターシアターは、ソワレの定番の「叙々苑 東京オペラシティ53店」で。

新国立劇場「トロヴァトーレ」(2回目) ~ 監督官庁視察効果の楽日 [新国立劇場]

trovatore3.jpg10月17日・新国立劇場・4階正面D席
3連戦の最後は前回の暗澹かつ憤懣での落胆の記憶を抹消できないままに2回分の入場券購入を悔悟しつつ手持券処理の義務感と若杉時代最後の開幕演目で望外の大輪を開花の代役女官役の再聴に楽日へ参戦。五十嵐時代の2回の旧演出での綺羅星の女官役連との比較では当初と代役の配役歌手の知名度に不足の故か肝煎りの開幕興行でも販売不振とも聞く集客状況の中で当初からの予定なのかは不明ながら最終日に鑑賞の世間注視の不祥事と失政への代償とも聞く大蔵省改称の陰で唯一に残存の律令制に由来の呼称が実態とは乖離ながら維新政府からの伝統名の権威を奇跡的に保持の中央官庁の孫請財団が運営の主催劇場への視察団の来場との伝聞に加えて劇場で会った知人からの目撃情報での辞任会見での迷台詞が国政史に記録の元首相の御来臨による管理畑から現場への奮発効果と再体験による恐怖心の減殺効果によって前回よりは焦燥感は後退の専ら聴覚のみを作動の鑑賞姿勢で対応。"トロヴァトーレ・カルテット"の筆頭はやはり抜群に代役女官役となって急遽の招聘経緯は不明ながら初役との"世界に誇る実践練習場"としての本劇場の国際的役割に相応しい登板によって見せ場のカヴァティーナでは作曲家が演目名で表現の芸術家の性格には無頓着の反領主集団の指導者としての無頼漢の性質に力点の外題役、作曲家が当初は主役として想定の三角関係の筋書に先代治世での故事で奥行を付与の大役としての存在感には未到の養母役、作曲家が敵役ながら孤高とも言える高貴性と残忍性が併存の気質の上に大衆を魅了の名旋律を授与の力量によっては弟役を凌駕の事実上の主役への昇格も期待できる美味役に仕立てた本劇場には真逆の代役で「三度目の正直」と記憶の伯爵役との3人の主役候補者を圧して歌唱力と表現力でのオペラ歌手としての才能に優った単身楽曲の故に到達とも思える繊細かつ大柄な実に堂々の唯一の記憶に残存の最良場面を創出して上演全体としてもニ択ながら前回との比較では当夜に軍配の消去法的な精一杯の満足感。役所風土では禁じ手の本劇場では前代未聞かつ物理的にも不可能とは承知しつつも旧演出によるイタオペを体現の主役陣と指揮者での復活上演を熱望しつつ重苦しい空気で開幕の国営歌劇場を後にしました。
アフターシアターは、手軽に定番の隣接ビルの「叙々苑 東京オペラシティ店」で。

新国立劇場「サロメ」 ~ 老練指揮者の滋味伴奏に陶酔 [新国立劇場]

salome.jpg10月12日・新国立劇場・4階上手D席
前日の悪夢と衝撃のイタオペ2連戦に続いて今楽季では年内に集中の新旧制作を一対の併行上演の前半の1幕物へ参戦。道化師役に続く短尺配役の本劇場では英雄役で馴染みの簒奪王役の降板によってドイツ派諸兄姉には御無礼ながら本興行への関心は皆無となって業務上疾病の芸術監督が任期2年目に満を持してのピット初登板宣言との販促戦術で前面の謳い文句が不履行の指揮者交代の措置によってあくまで結果論として国産品を除いた9演目中の貴重な1枠が偶然にも2日前に来日楽日の南独劇場が製作のもはや薄汚れ感も散見の美術と衣装での本劇場で「セビリャ」と並ぶ5演を誇る単幕のドイツ物との作曲家の国内愛好会員以外には魅力に欠如の天井桟敷組には三重苦とも言える演目だけが残骸のように残置された無駄遣いに等しい現実に代役イヤーの観点も加味の本劇場史に残る椿事として世事を繰り合わせて劇場観劇への高揚感に代わる入場券消費の義務感で入場。独唱陣では外題役には少女声の発声に工夫を感受ながら声量の安定感に欠けて傾聴への気力充填は断念、その母親役は舞台映えの存在感と安定感は経歴を連想ながらもはや輪郭が喪失の年増声によって役柄の年回りには適合との精一杯の好意的解釈、その義弟役は代役としては健闘とは受容ながら歴代の格上歌手の拝聴経験との照合の衝動を抑制できずに声量や表現に欲求不満の中で手慣れた邦人端役陣への団体入賞的な比較優位感も湧出の舞台空間への関心から全く遊離の落胆の一方で特筆の伴奏は幕開けは処女のように起状に弱く整理感のみの物足りない印象ながら傾聴姿勢に切り替えれば織目の詰まった絹のような充足感を感得しつつ前半の大詰から徐々に否が応でも音楽に誘引されて以降はオペラ史上屈指の奇譚の語り部としてピット指揮者の名声に納得の職人的な音楽づくりを砂塵への天雨のように当夜の聴覚の救済に位置付けつつ専ら堪能。当夜の客席と板上の空疎感で倍加の6日間で7連戦の疲労感を抱きつつ翌日の女王陛下の独唱会への期待を活力源に劇場を後にしました。
  「山縮み地には生命の竹の春」 昭成
アフターシアターは、新宿に向かって「珈穂音」で。

新国立劇場「トロヴァトーレ」(1回目) ~ 聴衆までも「死の国」に誘う徹底性 [新国立劇場]

trovatore.jpg10月11日・新国立劇場・4階正面D席
国営歌劇場の今楽季の開幕公演として運営財団の前任理事長が提唱の「世界に誇る劇場」にしては今世紀ではもはや古色蒼然とも思える演目選定に否が応でも地理的条件を超越の当地のオペラ界での辺境感を再認識しつつ世事を繰り合わせて平日マチネの4日目へ参戦。近年の開幕公演で散見の聴衆対象の変更点も現時点では開幕演目以外のチラシはA3判二ツ折からA4判ペラへの縮減の他には発見できずに本劇場で最も奥まった客席区画に着席すると遠目ながら沙幕には16世紀のブリューゲルの「死の勝利」と推測の絵画に15世紀との筋書の設定年代から2世紀後ながら「ドン・カルロ」の国王の統治期には年間で1万8千人が処刑と聞く画家の出生地と本作の舞台国との治世関係も連想しつつ民間主体の「東京ベルカント祭」への国営施設の関連行事にも擬して10年前とその翌年の本劇場での旧演出以来の作曲家が"ベルカントの集大成"を企図と記憶の画期作の拝聴まで静粛の待機。果たして演出と音楽が揃って開幕興行では主催劇場史に特筆の不出来との印象を払拭できないままの終演となって前者では売り物の新演出はビスカリャ山麓の場面での遠目が幸いの農耕民族には正視困難な舞台全面に類々の屍体四肢模型は米国歌劇場の舞台映像企画の鑑賞経験から文化的相違ともはや受容ながらも演出の基本設計に関わる難点では往々にして新奇性の安易な解決策の常套手段の反面で効果発揮は至難とも愚考の全編に登場の黙役2人は何故か敵対関係の先代伯爵と勝手に解釈の騎馬像から離脱の老騎士と外題役の祖母の錯誤による焼死の幼児の亡霊が前者は一見は狂言回しの役割を付与とも思えるも鈍感な感性からは意図不明な所作に加えて視覚上でも不可避の長駆痩身が難儀を倍加の企画倒れとの解に帰結の公式どおりの自爆的な着想の上に演技指導では導入曲の隊長の独唱に聴き入る兵士の恐怖心が伝わらない棒立ち演出、美術では伯爵陣地の場面での効用感に乏しい老女の中吊り趣向と牢獄の場面での主役の処刑場への昇降機の導入には失笑も湧出して敢えて好意的な観点からは第2部幕切れの主役ペアの逐電を以降は御役後免の侍女が伯爵の凶刃へ擲身の犠牲的殉職との端役活用に本演出で唯一の刮目の他は上演国を意図の和風4点セットとも言える戦場情景を表出の旗指物、放浪民兵士の地下足袋、櫓素材としての枯竹、アリアフェリア宮殿の場面での日本画風の満開桜の背景画を採用ながら実用上で利点と思しき履物以外は何れも発注国への阿諛とも受容の必然性が欠如の違和感に勝って殊に旗指物は黒澤映画を連想するも旗布自体または気流さえも死んだように微動すら生じずに日本人に独特とも思える感性の殺伐感や無情感を表出の風音の視覚化には未到の観客の心情だけが凍える効能を発揮して無用の長物の美術も含めると結果論とは承知しつつも演出関連経費はむしろ邦人演出家の生活費への支弁が順当とも思える程の無駄遣いと愚考。さらに"死"の演出に呼応の伴奏も殊に低減伴奏音での輪郭を喪失の響きとベルカントの生命感に全く欠如の音楽づくりによって音楽の死んだイタオペ拝聴への忍従を強制の上に内実を伴わない厚化粧の豪放な強音、不自然な緩急と"間"の頻出によって本劇場で過去上演の個性の希薄な凡庸指揮者にすら軍配の居心地の悪さを痛感の上に前月に逝去の元芸術監督時代には重視の重唱曲を含めてカバレッタ的部分での繰り返しは総じて省略されてベルカント作品の一大特性と期待の変奏も加えた再奏による高揚感を醸成の機会剥奪によって後半での指揮者の登場で早くも平素は紳士的な平戸間席に鎮座のペラゴロの先達からは複数の非難の掛け声と指揮者か非難者かの発言相手は不明ながら驚愕の日本語での罵声も聞き取れて異様な事態を初体験。さらに開演前には震災以降の米伊の劇場興行での7度の拝見で見慣れた主催者の登壇挨拶では芸術監督が不在のために運営受託の財団の相応者ではなくオペラ部門の実務責任者が代役を務めて隊長役の歌唱不能による控え歌手の代演と本来配役の默演出演が告知されて記憶では初体験の舞台裏歌唱の珍奇性も負の記憶に付加。偶然とは承知しつつも世界史的な天災と人災から半年後の被災国民への国営歌劇場の開幕公演が殺戮死を前面に中途半端な演出劇を持ち込む独人演出家と筋書自体は悲惨でもイタオペ屈指の血湧き肉踊る躍動感にベルカントの楽興にも到達の耳福の境地とは対極の独語圏すら北上の北欧圏で活躍の伊人指揮者の起用自体に近年の本劇場の性格を如実に反映の「東京ベルカント祭」に演目的には一興の選択ながら内容的には全く無縁のイタオペ派を死地に誘う公演成果に1カ月前の節減経費でも大喝采の「セビリャ」とは対照的な暗い気持ちと重い足取りを感じながら急遽に予定のソワレ公演に向けて既に夕暮の娑婆へ劇場を後にしました。
  「丑三つの騎馬像青く冷えまさり」 昭成
アフターシアターは、従って省略。

新国立劇場「オペラ・ミニコンサート」 ~ 湿気を忘れる瑞々しさ [新国立劇場]

mini.jpg7月29日・東京オペラシティビル・2階エレベーター前正面下手自由席
急遽の平日休暇の暇つぶしとして国営歌劇場の情報センターでの過去公演の映像鑑賞のついでに前週の現役生に続いて「新国立劇場オペラ研修所修了生による」との隣接の同敷地の高層ビルと合同の少なくとも地元に通勤・在住者には定着と推測の夏季行事の一環として3日間で各30分間の5回とのピアノ伴奏での無料演奏会の最終日の昼の部に参戦。会場ビル2階の書店前にロビーの東半面の赤大理石を後背板に利用の舞台前には約100席が設置されて1曲目での買い物客と昼時休憩中の通勤者への誘引効果によって演奏会中での多少の出入りもありつつほぼ満席の状況でつつがなく終演の昼休み公演は全8曲が並べられてソプラノ歌手とテノール歌手が交代での進行の下で概ね4部構成と拝察の第1部は客寄せの任務も負った闘牛士役の有名曲での押し出しと活きの良い歌唱にオペラ歌手らしい豊潤な声量で刮目のカルメン役が登場の舞曲で応えると文学青年的な雰囲気のマントヴァ公爵役が終結でのハイCの6秒持続を達成の後に一般客には馴染みの薄い選曲での第2部のレハールの世界に転じて後半部の伸びやかさに魅力のジュディッタ役の次はキープラの録音を連想の中国外交官役が続いて第3部はモーツァルトの楽曲から伯爵の小姓にはやや貫禄気味の歌唱を経て初めての重唱として放蕩騎士の誘惑の二重唱が試演会を彷彿のオペラらしい場面を形成の後に最終部は出演4人による定番のオペレッタでの乾杯歌が必需のグラスを片手に公爵と公証人の2節での唱和を眼前で実見して各節の最後の音階上昇を典型として音楽自体が歌手に発声上での生理的に合理的な全身の蕩揺を要請の作曲家の職人技を再認識。ロビー公演ながら指揮者の薫陶前の状態として各自の練習室での習練の成果を発揮の修了生らしい安定の歌唱で蒸し暑さから解放されつつ当日の目的地へ会場を後にしました。
アフターシアターは、従って割愛。

新国立劇場オペラ研修所「オペラ試演会 『嘘・芝居・真実』」 ~ 嘘であってほしい緊縮予算の真実 [新国立劇場]

scene11-7.jpg7月23日・新国立劇場・小劇場正面後方指定席
「発表会デー」の午前の部に続いて主催劇場の別会場での午後の部は子供オペラと同様に楽季末行事として定着の付置研修所の研修生による初日へ参戦。1年ぶりの会場では中古品か新品かは不明ながら中劇場と同様な本会場で中心の演劇観衆への対応と思しき場違い感を放出の庭園用とも拝察の簡素な白色のプラスチック製の3点セットが上層に9組、下層に11組も配置されて予算縮減下での観客サービスへの苦心を実見の上に本企画自体も3割値上げの価格に対して無料パンフのA4判ホチキス留め8ページから同二ツ折4ページへの簡素化に加えて震災による授業時限の一部中止の故か前半が概ね1人1役のわずか3場面と後半の一幕物での正味90分強への公演自体の短縮化、経費事情かは不明ながら伴奏ピアノの重奏から独奏への縮小化への恒常化は不明ながら財政難時代の大規模天災とそれに誘発の人災との今年度上半期の被災首都の状況を再認識の公演形態に従前の若手歌手によるオペラ重唱を愉しむ低廉での気楽な暇つぶしからやや緊張感を持って拝聴。50分間の前半の最初は贔屓曲の「妙薬」での軍曹の登場の場となって切込隊長役は初日の故かカヴァティーナ的な冒頭部の棒読み歌唱に先行きを危惧するも新入生2人を相手に速度が向上の推移部以降のアジリタ歌唱の後は研修生らしく抑揚の振幅は小幅ながら実力相応と推測の歌唱を示して合唱の無い落ち着いた雰囲気の中で三重唱を展開、続いて前曲と同じ作曲家の「ドンパス」での夫婦喧嘩と待伏計画の場面は現代劇に仕立てられて研修生らしく楷書的な歌唱の中で爆裂感ではなく溌剌感が連続の二重唱を披露、最後は当日で唯一の悲劇に転じて「ミラー」での大詰の場となって無理心中の青年男女の愛憎を作曲家一流の音楽の運もあって研修生らしく若者の熱気が伝播の格調感を伴った清々しい二重唱で表現。15分間の休憩を経て後半は前回のメノッティに続いてピアノ伴奏での一幕物ながら現在は廃止の小劇場オペラ企画の代替とも受容の小品喜劇が選曲されて2人芝居の外題役は短駆ながら豊かな声量と女性らしい演技力によって筋書どおりの婦唱夫随的な関係を構築して相手役はモーツァルトに触発されてか幕開けの独白の途中から音楽の流れに乗って奥方の登場からは喉が温まって実力発揮のように拝聴しつつも後半にはそれまでの熱演にやや精力減退とも拝察の一方で演出指導の効果としてキートンを彷彿の仏頂面で貫徹の黙役の家令役は動作の切れ味と人間の生理に訴求の過剰演技の繰り返しでの喜劇の王道を積み重ねる存在感を発揮して第三の登場人物としての役務を完遂。恒例の年度末公演も4日間から半減の日程予告を実見して本番回数が修練の生命線にも等価とも聞く研修所にも緊縮予算を本格適用の財政窮乏を推量しつつも演目発表を楽しみに夕刻の部の会場へ足早に劇場を後にしました。
アフターシアターは、従って省略。

新国立劇場「パルジファルとふしぎな聖杯」 ~ 子供オペラは劇音楽の世界へ [新国立劇場]

seihai.jpg7月23日・新国立劇場・中劇場下手指定席
真夏の酔狂の午前と午後は初台、夕刻は千駄ヶ谷の劇場への1日3回の強行軍を敢行の「発表会デー」として午前の部は色物的に7年前より主催劇場で楽季末に恒例行事化の子供向けオペラの第3弾に過去2作を拝見の慣例から中日の午前の部へ題材の舞台神聖祝典劇への愛着は皆無なままに義務的に参戦。2カ月前の不覚の遅刻行事は別にして震災前日の研修生公演以来の2階は北側窓面には経営努力の跡も生々しく調達先は不明な廃物利用の5組が設置可能な空間に一目瞭然な中古品の3点セットが4組配置されて来館客からの要望も考慮とは思いつつ大劇場と同様に空間美観がもはや壊滅の腰掛群の床面浸食に休憩時間の直立不能者への対応必至の高齢化社会の一端を実感しつつ上階からロビーを眺めると入場口付近では国営放送局の子供番組が起源と推測の国語発音の一類型とも思える独特の"歌のお姉さん"口調による着ぐるみの男女ペアが本作の目玉の一つと拝察の「聖杯ダンス」の指導に余念が無いものの半円状に集合して両手を挙げた親子連れの光景は思わずにドルイド教徒の集団祈祷を連想の少なくとも保護者には習得し難いように見える凝った動作を要求の上に来場者の入場には大いに迷惑な場所での講習に他には選択肢が無いのであれば舞踊実習よりも先に通行人への配慮の呼び掛けによる公衆儀礼の親子への啓発が国営施設としての役割とも愚考しつつもお節介ながら一幕物での開演前の行事は喫茶部門には営業妨害とも推察。入場時には節電社会に便乗とも邪推の小型団扇に両面印刷での簡便な公演概要とルビは付記ながら小学校低学年にはやや難解な用字を使用のA4判片面1枚の簡便な「あらすじ」が手交されてこれまで拝受の子供用を念頭の遊び心に溢れた凝った小型パンフとの比較の上では子供向けの情報量は残念ながら大幅に後退と拝察。予想外に堪能の初回作は本劇場の舞台空間では簡素ながら奥行きと迫りを活用の演出によって大団円には敵役の怪物も含めて和気藹々と記念写真に収まる主人公の嫁取り冒険譚の世界を「指環」からの名旋律で物語って後年のウィーン版への改訂受注には御同慶の一方で第2作は空想科学小説風の設定に電子音が多用のミュージカル仕立てでの進行の出来映えとなって「さわるな!」の垂れ幕と特別協賛企業が開発の人型ロボットによる客席への語り掛けによって子供心を掴んだ初回作を懐古しつつ本作での各10分間の幕開けの経緯語りや敵役の子供客との対話は何とも冗長で後者では小学生にドイツ物の元曲ながらイタオペの3通りの掛け声を伝授の必要性に疑問な上に近年の演出で散見の展開の上で存在自体が負担な黙役で設定の一角獣ペアの必然性も舞台のお賑やかし以外に稀薄で何よりも物語の肝腎部分の再度の聖杯儀式に臨む場面は約10分間の台詞劇に象徴のように期待の「ライン」からの選曲は敵役の本拠地の描写音楽として第3場への間奏曲の一節のみに留まって「指環」と「パルジ」で雲泥の旋律美の限界として音楽はもはや脇役として機能とも拝聴。諸事情からの無い物ねだりとは承知しつつもやや抹香臭い説教劇よりも「妙薬」や「セビリャ」から翻案の恋愛冒険喜劇も一興と思いつつ初回作の簡明な筋書展開と音楽的充実から第2作のミュージカルを経て今回の劇音楽へとオペラから遠心力が作用の本企画の生育を無縁な大人なりに案じながら劇場を後にしました。
   「林間学校フォークダンスに汗光る」
アフターシアターは、午後の部に備えて会場と甲州街道を挟んだ商店街の「魚吉」で。

新国立劇場「蝶々夫人」 ~ 俊才の伴奏に魅了の2時間 [新国立劇場]

butterfly.jpg6月18日・新国立劇場・4階正面D席
日米イタオペ競演の日本側の後半作として「コジ」との交互上演による代役騒動からの隔絶と実に隔年の四演に由来の低関心の故に埋没感の否めない興行の平日マチネの楽日へ2月の「椿姫」のような演目への魅力が皆無ではないながら同様に独唱陣と演出には無関心のままに昨夏のペーザロでの「チェネ」で好演との知人からの報告を信頼して専ら未聴の指揮者のみを目当てに漸くの参戦。果たして「期待と満足は反比例」との法則を凌駕の既に世界の檜舞台で活躍と言う仏系指揮者の音楽づくりは本作でのイタオペの到達点に位置付けの作曲家の一面では総決算とも言える美質を見事に実音化の名旋律の運びはかくあるべしとの願望をさらに上回るオペラ伴奏への天分を実証の管弦楽で悲劇の少女に慈愛の眼差しを向ける作品の本質を衝くような感興が全編を支配の見事な呼吸感での節回しを一心不乱に傾聴して本作での起用の決定者に謝念の一方で繰り言ながら前半作での交代劇が無ければ同月に今世紀前半のピット界の一翼を担う2人の俊英の競演が極東の歌劇場で実現との痛恨の念も湧出。外題役は音楽の流れには追随ながら邦語と同一の女中の役名が聞き取れない程の発音の歌唱に次回登場の未知の東欧物に期待して一方の中尉役は歌い慣れた歌唱の安定した出来映え。もはや再参戦の不能な楽日選択を猛省しつつせめても劇場図書館での映像鑑賞による再拝聴とピットへの再登場の機会を待望しながら劇場を後にしました。
  「長崎の丘碧々と皐月波」 昭成
アフターシアターは、夏の得意客への特別提供品を目当てに「とんかつ 三太」で。

新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」(2回目) ~ 読替演出はみんなこうありたいもの、または代役たちの学校 [新国立劇場]

cisi2.jpg6月11日・新国立劇場・4階正面C席
先週末に続いて楽日の週末マチネへ参戦。開演30分前に馴染みの天井桟敷に着席すると作曲当時の木管八重奏への編曲も連想のピットでの木管奏者の練習演奏で名旋律を拝聴できて期せずして編曲愛好者には早着特典的な耳福の待機時間を堪能。独唱陣はほぼ中2日の間隔での5回目の上に居心地の悪そうな伴奏と全編にわたって迫真の演技を要求の演出による疲労の故か総じて発声と重唱の緻密性、本作の喜劇的要素の現代人への提示を企図の動作の切れ味が低下して3回目での初見時の記憶で脳内補正しつつ世情混乱中での来日敢行によって本劇場が独自に世界に発信できた名演出の稀少例と確信の舞台の成立に功労の彼らへの慰労の念を抱きながら拝見するも他方で中1回を挟んだ前回と同様な傾向として愛好曲の贔屓感を捨象してもダ・ポンテ三部作の最終作として神童作曲家の晩年らしい音楽神が降臨とも思える筋書を凌駕の楽譜とオペラの非現実性に現実感覚を付与の欧米人らしく大自然を完全に人工創造と聞く美術の中での演劇的表現による等身大での感情表現によって喜劇の中の悲劇への没入によってか後半幕は前幕とは格段に音楽が深化の代役三人衆の歌唱面での向上に注目して姉役は妹役との二重唱では経歴では先行活躍の低声役が声量と技量に勝って存在感で優位を示すも前回より安定感を高めて前々場の二重唱と共に本演出の山場とおそらく衆目一致の第2幕のロンドは当日の白眉となってカーテンコールも含めて聴衆賞とも言うべき最大の喝采を獲得、その浮気相手役は手順を変更の故か独力でのテント張り作業の順調な完了に祝意を示しつつ聞き慣れも生じたのか籠もり声の高音部と中低音の声質の隔絶感も控え目となって山場の一翼を形成の友人との確執の壮絶感も一層に深化の表現、女中役は不出来の独唱部が改善されて旋律の流れに基づく歌詞内容の表現の進化による筋書展開と音楽的感興の中断の発生を感受しない最低線には到達と拝聴、指揮者は周囲からの圧力なのか演奏回数の増加による譜読みの進化なのか天上の音楽を地獄に撃墜の無表情な伴奏音型は後退して加速が図られるもそれ故の結果か殊に前半に顕著な板上との不揃い感が目立ってカーテンコールでは楽日に至っても天井桟敷の中央部からの無粋感すら発現の執拗な非難の掛け声に苦笑で対応。それにしても映像を含めてもペラゴロ人生で初めて大詰などの特定場面や登場人物の個々の所作という次元を超えて全編を通じた完全な読替演出で納得感を惹起の出色の演出は哲学者の位置付けの再設定を軸に利用客に非日常を提供のキャンプ場の受付窓口から屋外に登場の瞬間から万人に一目瞭然な複雑な過去を持つ人物像を放出の尋常でない雰囲気に本演出への期待感は幕開けから上昇して女中の登場までの仕込み部分は薪割り、雄鹿頭部の剥製、コーラ缶、大衆雑誌の男性写真、旅行鞄、軍用車、軍艦模型、キャンプ用の食器と舞踊の当て振りに共通の常套的な表現ながら楽曲ごとに象徴の大小の道具を繰り出した巧妙な場面表現の連続進行に舞台への注視が続いて2番目の五重唱は合唱の停止動作での心象表現と後続の合唱団が一列での下手から上手への軍艦模型の波状移動は漫画感覚での超現実的な情景描写に感心の後に男子組の変装からの本編に移行すると第1幕は総じて喜劇を強調の前代未聞の演技指導が行われて第11番での売店の食器類の散乱、第13番でのキャンプ道具の撤収、第14番でのテント張りへの妹の加勢、第16番でのミュージカル風の演技に続く第17番は混乱の終曲の直前で後続曲と好対照の嵐の前の静謐感、テノール役に付与の個性を踏まえた本作の顛末を知る者には無情な悲劇の前の虚しい夢想感、背景に配置の心的変化の姉妹との対比感との三重写しの抒情の世界に転じて第2幕の水浴の場面と双璧のオペラ舞台で驚異の絵画的な世界の現出を経て「心に痛みを伴えば恋ではない」との女中の一語を受けて退場の哲学者に呆然として舞台に残置の彼女に2人の結末の暗示も感じつつ終曲では砒素を顆粒状の洗剤に、磁気治療を心肺蘇生装置に置き換えの上に偽中毒の後遺症では「ユピテル」「パラス」での古代ギリシヤからの連想なのか男声同士で抱擁させて姉妹の名誉毀損との歌詞に繋げる着想の妙味に刮目して默演群衆として現場用テープも準備の使用人と利用客の野次馬配置に客席へ大詰らしい高揚感を伝播の数々の秀逸な創意工夫が次々と展開して大混乱の様子を見事に描写の中で哲学者と女中のブランコでの親密ぶりも含めて"昼の世界"で形成の抱腹絶倒の喜劇の部での急展開の大団円を大いに堪能。盆舞台に本水での渓谷池を急造の30分間の休憩後は"夜の世界"で生成の悲劇の部の幕開けとなって第20番での男女2組の水遊びで一挙の親密感の醸成を経て第21番では誘惑の音楽として魅了の管楽六重奏の前奏は万人が経験を持つ漆黒の暗闇のキャンプ場を移動の利用客に必需の懐中電灯の燈火が天井桟敷からは蛍火のように映じて名旋律の音楽効果によってオペラ舞台では稀有の現実感と幻想感を兼備の記憶に刻印の予想外の鮮烈な印象を受けて板上は告白環境にはお定まりの焚き火場面へといよいよ進んで残された低声男女による妹陥落の二重唱は舞台袖からの照射が実に効果的な映画の一場面を彷彿の歌詞発音の滑稽性すら完全に忘却の筋書の展開とも符号の忘れ難い本演出の白眉を形成するも本曲の句点の低弦での最後のピチカート3音で同衾の常套表現の順次にテント内の照明消灯の操作は楽日の故か残念にも音楽とは不揃いの不発の結末を見届けて続く水浴の場に仕立てられた姉のロンドも照明効果も手伝って一幅の泰西名画の美観を提供のやはりペラゴロ人生で忘れ難い構図の殊に当夜は代役の迫真の健闘によって随一の場面に昇華して最後の歌詞を反映の恋人の好意を背中で対応の演出によって隠し味の添加のように彼女の万感の想いが一挙に伝播の妙味を凝視した後は男子間の哀しくも真剣な修復不能な諍いを経て全員離散の大詰へ男女4人の各々の個性を際立たせつつ悲劇の階段を一歩ずつ登るように突入。また、女中のアリアを好例として第1幕では姉妹からキャンプ客へ、第2幕では姉妹から「女王」の歌詞による着想の男声組への説諭対象の変更の他に低声恋人の最初のアリアは姉妹から哲学者への当て付けとして位置付けられて次曲の男声三重唱との連続感を解決の上にこの変形のように第22番では姉妹への求愛応答の手本が哲学者への復縁拒否の歌詞解釈への変容、終曲では遂に聴衆への美徳称揚が全独唱陣の各自への開き直りに変質の意表を突く演出家のト書を意図的に逸脱ながら違和感を微塵も抱かせない新奇性の表出に才気に溢れた個性を実感。なお、字幕の一部にチョコレートを「飲み物」、紙を「写真」などとの意訳は読替措置と同様に賛否二分とは思いつつ演出対応の措置として許容の範囲内と理解。実見後もなお舞台写真をどう拝見しても情景模型としか思えない初感覚にやや戸惑いつつ見事な人工の自然美に貫かれた舞台装置と鮮やかな色彩感の衣装の本作の世界を単なる初演時の衝撃の蘇生との視覚的印象に終わらずに筋書を今日的に深化の秀逸な人間描写を反芻するにつけて主演歌手の初役、指揮者の初振りの練習場としての事実上の国際的な役割を負う極東の国営歌劇場の任務の一環に気鋭の本作演出家の錬成場として毎楽季1本の新演出の発注を熱望しながら本演出に適合の歌手陣と指揮者での再演、再々演を期待して劇場を後にしました。
アフターシアターは、週末の早い時間の気紛れに「新宿中村屋本店 ラコンテ」で。

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