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新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」(1回目) ~ おもしろうてやがて悲しき博戯哉 [新国立劇場]

cosi1.jpg6月5日・新国立劇場・4階正面C席
今楽季の掉尾を飾る2週間の日米オペラ競演の初日として日本側の「コジ」の中日となる3日目へ参戦。日米ともに電力会社の経営判断、専門委員の学識見解、所管官庁の監督行政、為政者の危機管理の負の影響から代役合戦の様相も呈して好転例は演目間移動を除いては米側の指揮者と一例とも思える成り行きに本来配役歌手の歌唱芸術を堪能の機会喪失も社会各層での諸問題対応と同様な賠償対象外事由での被災民の心的苦痛を甘受の有権者の自己責任との諦念を抱きつつも4月の「ばら」で実証のもはや脳内補正機能も停止状態の力量の落差に「幸福な人生を遂げられるのは物事を理性的に考えて良い面を見る者」との本作の台本作者の教訓を半ば捨て鉢に実践の極東の祖国が起点の世界史的画期の副産物との屁理屈を胸に2カ月ぶりの国営歌劇場へ向かえば最寄駅から地上へのエレベーターは復旧して改札から入場口までは階段使用の必要なしに無事に貧民階に着席するとおそらく初聞きの英語での諸注意が場内放送されて地震を契機にささやかな国際対応の進捗と拝聴。前回公演では「興行敢行に意義あり」とも言うべき震災から1カ月後の世情騒然の下で邦人歌手を大量動員の陣容での前月の劇場初の公演中止措置からの再開からは状況は前進するも独唱陣の半数と指揮者が交代の満身創痍には変わりなく彼らの出来映えを大いに懸念しつつ傾聴すると代役歌手陣では姉役は演出効果で詩情を増幅の第2幕のロンドで緊張感を保持の熱演ながら殊に高音で明瞭なモーツァルトには強靱な声質が配役の性格を象徴と精一杯の解釈、その浮気相手役は前半の見せ場のアリアでの最高音部のロブスト的な籠もり声の違和感が友人との諍い場面まで継続、女中役は重唱では目立たないものの肝心なアリアや独唱部では途端に歌詞内容に平板な生彩を欠いた表現に終始、さらに指揮者はコントラバス3本の室内オケ編成とは到底に信じ難い前世紀中葉に遡上と錯覚の鈍重な響きを基底に天才が創造の天国的美観を墨汁で塗固のような音楽的感興が欠如の伴奏によって例えば第1幕の姉のアリアでは楽譜の音符を並べただけの交通整理にも未到の退屈な音楽づくりに板上の歌手に負の感化とも思える少なくとも本作には不適な才能と愚考。これに対して本来配役の低声陣では妹役は確実な歌唱技術で母語とはいえ音節と旋律が一致の自然な流れを生成して安心感にも通じる安定した力量を披露、その浮気相手役も歌い慣れの切れ味と歌い回しの旨味によって妹役との二重唱は天上的な音楽も手伝って歌詞の諧謔を吹き飛ばす程の色香に満ちた当日の白眉に昇華の忘我の場面を現出、哲学者役は演出での狂言回し以上の存在感を付与の不幸な過去を持つ人物を7年前の颯爽のグンターと同一人物とは思えない程のやや猫背気味の長躯から中年男の屈折感を身体だけで客席に放出の演技力はオペラの登場人物を超越の領域とも感受の結果として定評の歌唱表現によって録音を含めてこれまで経験の哲学者像とは隔絶の現代人と等身大の役柄に変容、さらに演出家は悲劇的な最期を遂げた「トーキョー・リング」と同様に本劇場史に残る出色の成果を挙げて才気煥発な展開と詩情横溢の美観の両面から一瞬も見逃せない読替演出の模範とも言える本作の新境地を創造。ダ・ポンテの教訓を励行してもなお屈指の贔屓曲を無惨に台無しの上に演出方向とも対極と思える落胆の伴奏ですらなお天才作曲家の音楽美へ誘引の驚異の視覚効果と筋書の展開を追うように劇性に没入の独唱陣の熱演を楽しみに1週間後の再参戦を期して日没前の俗世へ劇場を後にしました。
  「短夜や恋の生命に重なりぬ」 昭成
アフターシアターは、隣駅へ足を延ばして「くろ黒亭」で。

新国立劇場「ばらの騎士」 ~ 大衆演劇でお家物の名狂言 [新国立劇場]

rosen.jpg4月19日・新国立劇場・4階正面C席
被災後の首都圏でのオペラ初興行は本公演、研修生公演、講演会を中止の国営歌劇場が再演ながらドイツ派の参集も期待の初演100周年記念もあってか新制作と同等の6回上演との破格扱いのオペラ史上屈指の名作長編によって再開に作品名と共に華美を添加ながら外国人歌手5人中で4人の来日辞退と1人の補填、ピット楽団の音楽監督指揮者の来日拒否と同国人への交代によって折しも新年度を節目とした事態発生1カ月を経過での断固決行とも言うべき満身創痍状態の新日程での唯一の平日ソワレの4日目へ参戦。新芸術監督の考案と言う国内オケのピット入り営業戦略は当初よりオケ会員への認知目的の話題作りの単年度計画だったのか今楽季限りの特別措置の濃厚な可能性を思い出しつつ最寄駅構内を含めた地上階に至るエレベーター停止と中劇場へ通じる階段区域の消灯による国策対応の実感、本劇場へは2月興行を敬遠のために年初以来となる夏季休業明けと同程度の3カ月強の空白を経た来訪の感慨にも至りながら入場すると内装に多用の木材に塗布の薬剤からの放香に一種の安堵感も生じて天災当日は研修生公演中での避難誘導に加えて帰宅困難者の救護所として終夜開場で国営施設の責務を履行の当事者経験のためか経路図、場内放送、字幕表示と災害時避難の執拗な案内に被災社会の現実感を抱きながら通い慣れた満席の天井桟敷席で着席待機。配役は3層に分類可能とも愚考の主役級では唯一の当初予定組の男爵役、代役組として外国人の侯爵夫人役、邦人の外題役、商人令嬢役、商人役の合計4人に二分されて残るは脇役組の邦人歌手陣と設定すれば出来映えの序列もほぼこの順序に比例して当夜の立役者は断然に本役を自家薬籠中の男爵役となって第1幕では登場からが筋書の展開どおりに喜劇の本格化へ場内の空気を一変の真打ち登場に相応しい錬成の歌唱、第2幕の大詰では比較的に低速で進行の20分間強の独壇場でまさに当夜随一の聴き所を見事に創出。代役組では侯爵夫人役は第1幕の独白では聴衆への説教風の語り聞かせ、第3幕の三重唱では調和感の欠落の聴かせ所はいずれも不発に終わって血縁関係は不明ながら男爵の従兄弟との素性にやや得心の代役相応の歌唱、商人令嬢役は配役の重要度と声楽技量の両面から最後まで邦人代表格としての存在感の健闘に好感、外題役はズボン役ながら女装姿に適合感の乙女らしい風貌と声質によって配役自体への疑問も感じつつ最終幕の大詰に至ってそれまで蓄積の体力を発散と拝聴の邦人女声の二重唱でようやくの実力発揮、商人役は同胞が受容しやすい表現で筋書の描く父親像を熱演の描写。脇役組では4年前の新制作公演と同役の男声陣が各人の個性を発揮して殊に公演慣習的には別格扱いも散見の歌手役が遠目には作品が想定と理解の伊人テノールらしい所作と2節目に明瞭な輪郭を形成の場内に充満の朗唱によって突出の他には達者な滑舌と所作によって胡散臭い小悪党を怪演一歩手前の動の情報屋役、堅物を表現の端役的歌唱に加えて第2幕での窓際で焼菓子を食べ続ける静の公証人役に注目。代役組の範疇に所属の指揮者は第1幕の情話場面から最終幕の大詰での銀細工の光彩音型まで馥郁とした優艶や情趣に欠乏ながら壮観性は小さいものの相応の統率力を示してやはり代役相応の満足感。カーテンコールではご祝儀相場を含めて存外に好評の様子となって会場で会った知人曰く「これまで聴いた本作公演は高水準だったと再認識の感慨」との自身の舞台体験の回顧に本作の魅力と難易度を再確認しつつ料金水準の維持に絶大な貢献の来日敢行の男爵役に満腔の謝意の一方で今後の外国人演奏家の来日動向を大いに危惧しながら劇場を後にしました。
  「大見得のすがた朧や旅一座」 昭成
アフターシアターは、日付変更まで残り1時間半の時間対応策として会場裏手の「デニーズ 西新宿店」で。(終演約30分後に外国人三人衆が来店して23時10分発生の震度3の余震に微塵も動じずにジョッキを前に歓談の様子を目撃。)

新国立劇場オペラ研修所「外套」&「ジャンニ・スキッキ」 ~ 「二部作」の陰の主役は盆舞台 [新国立劇場]

tabaschi.jpg3月10日・新国立劇場・中劇場下手Z席
開始当初の無料申込制は別にしても観覧料が現在は税込3倍弱に値上げの年度末の修了公演に逡巡しつつも英国人演出家の舞台づくりへの好奇心と偶然の呼応とは思いながら本公演と併せて主催劇場の作曲家の出世作と完成最終作でのプッチーニ月間とも言うべき機会への考慮もあって当日に決意の廉価券入手作戦を敢行して開演30分前に会場の券売所に到着すると唯一の平日ソワレのためか残券2席との天恵に浴して無事に初日へ参戦。招待券の枚数は不明ながら2階席閉鎖での客入りは7割程度の様子で開幕前には中央通路に面した特等席には襟巻姿で来臨の芸術監督も着席のテノール不在の制約の下で無料パンフに依れば1年前より演目検討の研修所長が選定との「アンジェリカ」を割愛の正規順序に依った前半曲は前段の脇役陣が活躍のお賑やかし的場面では初日の故か台詞原語の流れに乗り切れない雑然感が散見されるも不倫の二重唱から悲劇の深化に従って俄然に劇的展開への収斂化が進行して現役生当時からは頑健さの増加が顕著な恋人役の先輩の助力も得ながら船長役は独白場面での中年男の悲哀と無骨を若々しい歌声で年齢相応の力感で表出して予想外に敢闘の出来映えを示しつつ殺人から愛妻への暴露まで本作が要求の緊張感を保持した主役陣3人の健闘によって「外套」と「道化師」の浮気殺人二本立興行も一興との好奇心も湧出。25分間の休憩後の「スキッキ」では7年半前の試演会での先輩たちの熱演の記憶との比較では当時とは小舞台から中劇場でのピアノ編曲からオケ原曲に変化の活力減と迫力増となって同舞台に研修生として出演の同期の甥役と前半の力演から継続の娘婿役は同一配役、さらに1期年長組の同舞台では元市長役からさすがに主役より堂々の舞台映えの二役を巧みに歌い分けた医者・公証人役に本企画特有の同窓共演の感興も付加されてベト7のような客受け保証付きとも思える本作での幕切れは予想通りの新修了生の門出に相応しい喝采に御同慶の至り。本企画で2度目の伴奏楽団は他例でもオケ曲専門の宿命とも実感の声楽旋律への呼吸感に不足の歌謡性に稀薄の音楽となって外来指揮者も作曲家晩年の巧緻を極めた楽譜の立体化に乏しく前半曲との対照性を意識してか後半曲では寸断的に局所的な高揚が形成されるも時に歌唱を遮蔽の音量も出現の板上との一体感には未到。演出は4年前の客席は不入りながら好感の「ヘリング」での絵本仕立て、昨年の「ファル」でのポップ感覚に続いて今回は写実風に徹するも前半曲の大詰では白色の箱型を回転させつつ登場人物の感情を象徴の照明色の色彩変化に個性を凝集させて心理劇としての創出に貢献。劇場入口への階段の降り道では前後の脈略は不明ながら同道者に「こういう中で良い人に出てもらおうと」との芸術監督の発言を小耳に挟みつつ次年度への熟慮の所長選曲に期待して劇場を後にしました。
  「銘々の大志束なる卒業歌」 昭成
アフターシアターは、新宿に戻って「珈穂音」で。

新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」(2回目) ~ 烈女を装備の巡洋戦艦級の軽快感 [新国立劇場]

tristan2.jpg1月10日・新国立劇場・4階正面C席
3年前の主催劇場での新年特別興行の記憶も朧気に本年初のオペラとして旧年公演からの進化も関心の三連休の最終日に休日マチネの楽日へ参戦。伴奏に殊に第1幕での力瘤が必要な瞬間直前の"間"での気迫の呼吸と唸り声が頻発の指揮者の意志が浸透のさすがに前奏曲から前年の2回目とは錬成の度合いは伸張の農耕民族の限界として強音や高音での弦楽器の動物性油脂的な粘性や艶性の不足を逆手の表現との感慨も抱く程の聴く側の耳慣れ感も手伝った緩急と強弱に柔軟な歌心と迫力に向上して本曲への敷居感が一挙に低下の第1幕の大詰ではやや人工的な急速設定によって「指環」第一夜の同幕には至らないまでも予想外の高揚感の醸成、第2幕での指揮者が事前解説行事での本公演で特に意識との天国的に長大な二重唱の光輝な"昼"と静寂の"夜"の対比感の強調、続く国王の独唱場面では音量強調の不要な楽譜指定にも与って板上の平板な歌唱よりも台詞の意味を表出の入念な音楽の運びを経て最終幕に至って全体では寂寥感が前面の音楽もあってか冒頭の前回では落胆の木管楽器の独奏もアリアのような自然な旋律の抑揚から大詰の独唱場面では俄に瑞々しさが増幅の音色に転化の指揮者の作戦成功とも推量のオケに余裕の演奏の範囲内での僅かの減速が奏功の頂点形成に到達の後奏では諸々の観点で主催劇場史に残るであろう本公演の集大成も込められた一大絵巻の大団円の余韻感が場内に響きわたって伴奏面では当夜の最良の一幕とも拝察。歌手ではやはりカーテンコールの登場順でも主役扱いの女王役が前回に続いて断然の出来映えを示して彼女の主役幕とも言える第1幕での決め所は明快な強声での見事な大見得で爽快感の感興の一方で騎士役は疲労に起因なのか前段は前回ほどの生彩には至らずに侍女の忠告の独唱中に尖塔の影陰の中で相手役から入活の故かその後は復調して長大な二重唱の最終部ではロッシーニ・クレッシェンドの成長形とも勝手に認識の「愛の死」の波状旋律を相応に満喫の歌唱を披露して続く国王の独唱後の二重唱では「指環」第一夜で最も悲劇的な名場面と位置付けの異母姉弟の二重唱を連想の旋律を背景に演奏への没入には未到ながら同幕大詰の陶酔の二重唱は詩情感を醸成して無事に自刃的決闘の場面に突入の後に騎士が主役の最終幕は活力回復時の場面では強音の故か草食民族のピットでの精一杯の奮起に呼応を期待の作曲家が企図の悲劇的英雄を創出の雄渾な音楽のうねり感に不足の高貴性が欠乏した従者の身分と同程度な印象に留まって見せ場の独唱には十全に浸りきれずに当夜での集中力が唯一に散漫の時間も生起。脇役陣では従者役が主人役に忠誠を尽くして前回とは反対に最終幕で本領を発揮の死地に臨む場面に限って騎士階級を彷彿の勇壮な歌声に変じて第1幕と最終幕での内面的変化の相違を明瞭に意識の結果として遅まきながら本役の他面性を初認識の他の外国人組は歌い慣れ感はあるものの刮目の歌唱には至らずに日本人組では牧童役のみ前回よりも本作の世界に深化の足跡と拝察。演出は黙役10人組に水音・細波生成機としての機能と長台詞の間の動作停止への慰労の念を感じつつも好悪の問題ながら舞台の雰囲気を破壊のお賑やかしの不要感も湧出の上に抽象性が高いとは認識し難い舞台構想の一方で歌唱者以外はほぼ棒立ち状態の演技となって青色と補色の色彩的美観は印象深いものの結果的には泰山鳴動的な結果とも愚考。前回は下手側、今回は上手側の隣席紳士の寝息に大いに閉口してたとえマチネでも"夜"の世界を象徴の劇場空間に"昼"の世界の疲労を持ち込みながらも拍手は人一倍の御仁の出入遠慮も所望しつつ聴衆にも肉体的限界を強いる作品だけあって天井桟敷席ではついに最終幕で豚鼻いびきや老人性咳払いも耳にして本作の特異性を聴衆からも実感の上にカーテンコールでは本日終了の場内放送の後も4階席に偏重の客席全体では目測で1割弱程度の起立拍手の熱狂者が発する執拗な要請に応えた答礼もあって異例づくめの本公演の幕切れを見届けて劇場を後にしました。
  「嫁凄む夫婦漫才威勢良し」 昭成
アフターシアターは、睡眠防止策の各幕前でのコーヒーによる満腹感のために好奇心に負けて簡便に隣接の高層ビル内に開店の「丸亀製麺所 東京オペラシティ店」で。

新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」(1回目) ~ 主役ペアの独壇場 [新国立劇場]

tristan1.jpg12月28日・新国立劇場・4階正面C席
国内オペラ公演では異例の越年興行の経験も一興との思惑も含めて旧年分として年末楽日の2日目の平日ソワレへ参戦。本作への愛着はほぼ皆無のために実聴は難曲探訪への精神的余裕が発生の僅かに5年半前の邦人歌手による不完全上演と3年前の旧東ベルリンの歌劇場の来日引越公演のホ列観戦のみとあって国営歌劇場での本格上演に向けて過去の朧気な記憶を蘇生させつつも世事多忙に起因の復習も覚束無いままに首都圏住民の住宅事情を考慮の終演を午後10時に設定の措置から逆算と推量の通常公演より1時間30分を早めた開演時刻に合わせて入場すると各幕ともに所要はほぼ同時間で休憩はその半分が2回とのモーツァルトやロッシーニの作品のほぼ1幕分に相当の90分が基調の時間配分の様子で当夜の体力を危惧しながら天井桟敷席に着席。延々と「渡鬼」の脚本以上とも印象の長台詞を語り繋ぐ心理劇と思える程の主役ペアに過度の負担を要請の中欧のアルプス以北から東欧に出自の民族でなければ太刀打ちが困難の上に伴奏も相応に黄色人種には不適とも思えるオペラ史上屈指の表現と身体の両面での難曲を前に王女役は最終幕での登場後はそれまで封印気味で好感の歌唱から突如に意識的にヴィブラートを発動させて好悪の問題ながら正味4時間半の大曲の結末で愕然の歌声となりつつも当夜の事実上の主役を印象付ける出来映えを示す一方で初役と言う騎士役も昨秋のオテロ役とは別人のような安定感のある確信に満ちた歌唱を示すも主役となる第3幕では感情の抑揚は大きいものの威勢に勝る時間もあって全曲は2回目との消化不良感も感得。準主役級では従者役が第1幕では出で立ちもあって本劇場でのヴォータン役との同一人物とは思えない程の平民身分の粗野な臣下らしい歌声に注目するも第3幕では期待と失望は反比例との公式どおりの歌唱に聴く側がやや反省となって侍女役と国王役は何れもカーテンコールでは喝采を浴すものの前者は少女風の設定の故かは不明ながらイタオペ派には台詞の抑揚感に乏しい単調性によって本作の特質と言える主役ペアを通した人間の内面世界の深奥を摘出の側面支援の描写に却って制約助長とも思える歌唱表現に終始と拝聴して結局は超弩戦艦級の主役2人に注目の一夜に終始。「軽量感のある伴奏の故に予想外に作品を理解」とのベルカント好きの知人に半ばは同意しつつも年末年始の休暇明けの楽日での再体験に黒白付けを先送りして劇場を後にしました。
アフターシアターは、師走の夜風を避けて手近に深夜営業の「デニーズ 西新宿店」で。

新国立劇場「アンドレア・シェニエ」 ~ 大声だけではオペラは不成立 [新国立劇場]

chenier.jpg11月15日・新国立劇場・4階下手C席
今楽季の国営歌劇場でのイタオペ四兄弟から第一弾の再演目に平日マチネの2回目へ主役陣への期待感は皆無のままに義務的な参戦。果たして外題役はスラヴ系らしい発声によってラダメスを想起の立派な恰幅の体躯を増幅器として光輝な高音を場内を充満させるも自身の配役解釈かは不明ながら展開の進行に従って感情の起伏に乏しい表現に終始して例えば高年客層の高揚感昂進の緩慢性も一因とは思いつつ前半の独唱曲での熱情感の放出の希薄な歌唱では当然の帰結にも関わらず各自のアリアで拍手を惹起の伊人歌手2人へ対抗の焦燥感の故かいよいよ最終幕の客席からの拍手を獲得し難い独唱曲で最後の一音を殊更に強調の強要感も伝播の終結処理でも高齢聴衆からは依然に鈍い反応の作戦失敗と拝見してその相手役は中音域が中心の第1幕では従前の印象を払拭の端正な歌唱を示すも第2幕以降はやはり高音の頻出によってヴィヴラートの目立つ耳障りな発声が目立って見せ場のアリアでは天井桟敷近くでも充実の咆哮がヴェリズモらしいとの錯覚に誘惑の堂々の歌唱に圧倒されながら敵役はこれまで実聴のとおり音量に依存のヴェルディ以降は役柄の心の襞を表出の歌唱で聴衆の琴線に訴求という主役級の低声歌手には絶対必要の条件には到底に到達し得ない浅薄な感情表現となって主役ペアの大詰の二重唱も大声合戦ばかりのワーグナー的な陶酔感からは大幅に後退。脇役で布陣の邦人歌手ではやはりイタオペ歌唱は不問にしても筆頭役とも言える密偵役と友人役がピットを越える歌声と歌詞の含意を熟考の表現に頭抜けた出来映えの一方で歌唱・演出指導の問題とも思いつつ一部の歌手の能面のような歌唱と演技、合唱団の活力感の乏しい表情と動作は邦人特性ながら演劇的な生気が欠乏の舞台に貢献。伴奏は仏人らしく低音を目立たせずに相対的に高音を前面の周波数の高い音楽づくりに依りつつ部分部分には留意しながらも自在な緩急による波動感の形成には至らずに結局はイタオペの醍醐味は最後まで実感できないままに幕。カーテンコールでは平日ソワレらしく老声で頻出の掛け声に高齢者の精神衛生に寄与の公演も社会的意義ありと思い直して見納めの可能性も高い盆舞台の照明を記憶に刻印して劇場を後にしました。なお、余談ながら経費削減対策の一環に昨楽季から採用の主催興行のチラシ挟みとして流用の当日演目の二ツ折チラシの在庫払底なのか3作目からの新手法なのかは不明ながらB5判両面刷での配役・裏方名簿と粗筋を掲載の上質紙を二ツ折で代用の措置は受取任意の資料ながら有料パンフを非購入の聴衆への控え歌手以下、副指揮者、練習指導者などの芸術家から舞台監督助手、大・小道具、床山、履物、照明などの舞台職人までの本公演の主要関係者の全容が一覧網羅の認知効果と共に興行主として義務的行為とも思える客席からの喝采を享受できない立場の同僚・契約者・取引先への当然の配慮と再認識の本劇場の間接部門へは稀有な大拍手を進呈の心境は実感できました。
  「遠雷や午睡の夢を打ち砕き」 昭成
アフターシアターは、夕方の新宿に出没して「新宿 立吉」で。

新国立劇場「フィガロの結婚」 ~ 「アルマヴィーヴァの改心」に [新国立劇場]

figaro.nntt.jpg10月19日・新国立劇場・4階正面C席
新芸術監督の就任後初の再演作品は新制作演目と平行して国営歌劇場史上で唯一の異国籍芸術監督の披露興行を飾った故意か偶然かは不明ながらその国内オペラ上演史の一画期とも言える新制作時の指揮者が今楽季は開幕演目を担当して7年間に実に4回目の再演には期間中に年上指揮者からの指導もあるのか同母語人の若手が抜擢の再演公演の楽日に専ら前回では従僕役を務めた伯爵役を目当てに参戦。貧民席での区割設定の変更によって正面後方列は再演演目では2倍増との法外な料金増額のためにもはや気軽には来場不能となった通い慣れた天井桟敷から客席に露出した馴染みの正方形の装置を凝視すると幾多の出演歌手の足跡を刻印するように薄汚れた床部分と大きく黄ばんだ側壁を遠望すると国内のオペラ興行慣行との軋轢も生じた元芸術監督時代の4年間への感慨も湧出。男声陣では外来歌手が総じて若手で占有の中で伯爵役が経歴、技量、母語の面から本公演の座長的立場に相応しく7年半前の「トルコ人」の詩人役での作品の特質を衝いた怪演を彷彿の表情と動作も連想の第1幕の合唱曲での小作人のあしらい、外題役の実父母判明時での驚愕の面相など喜劇作品の中での暴君を見事に演じて概ねは常時動き回る中で一瞬にも満たない動作の停止効果が舞台経験の豊富な演技巧者の美質を示して全編にわたって安定した出来映えとなるも殊に大詰の改悛の場面は総休止後の開幕からの乱痴気騒動の展開を一変の宗教的静謐感を場内に拡散の独唱の僅か30秒間を悠久にも錯覚させて指揮者の意図かその後の重唱でも頭抜けた音量で主導しつつ作曲家一流の天国的旋律美による本作の頂点を形成の一方で従僕役は2年前の同じ板上での闘牛士役と同様に押し出しの良い声量を示しつつ医師役とはロシア語との関係からか聴覚的にはスラブ系ながら父子関係も納得の親近性を示すも経歴の浅さを示す皮相的な表現でやや退屈。女声陣では女中役が声質に合致した配役での無理の無い発声での歌唱と歌い回しで比較上では抜群の安定感の一方で夫人役はやや生硬な声質と品格の欠如した歌い回しから伯爵夫人よりは「セビリャ」での深窓の令嬢ながら機知に長けた従僕も感服の才気喚発な町娘と思しき素性を想起と無理矢理に解釈して小姓役も外題役と同様に見せ場の独唱曲では2曲ともに中間部で主部との対比感のほぼ皆無な表現となって作曲家の意図に反した上手味を感得できない歌唱に終始。伴奏は劇場の第1専属楽団がおそらく新制作組と再演組で分担して本作初演から約150年後の「アラベラ」と比較して室内オケ的な演奏で快速基調ながら響きの潤い、夫人のアリアでの悲嘆、木管楽器の装飾旋律などへの意味付けが薄弱で堪能の域には未到。劇場の管理運営を受託の孫請け財団の役員報酬は不明ながら知人曰く「初心者向け公演も国立劇場の役割」との見解に納得しつつも逓減と聞く制作費の演目間配分の問題、欧米劇場でも散見のモーツァルト作品公演の位置付けも考慮ながら有名曲の故にこそ歌唱巧者の配役選定の視点も必要と愚考しながら劇場を後にしました。
  「落鷹の声溶け入りぬ南空」 昭成
アフターシアターは、半年ぶりに隣接ビルの「叙々苑 東京オペラシティ53店」で。

新国立劇場「アラベラ」(2回目) ~ 「マンドリカ」から「アラベラ」へ [新国立劇場]

arabella2.jpg10月17日・新国立劇場・4階下手C席
国営劇場の今楽季の開幕演目に途中1回上演を含む中5日を空けて楽日へ参戦。下手席から階下を遠望すると週末マチネながら少なくとも2階正面の上手区画はほぼ空席の状態で興行側の思惑も6回までは保持てきずに当日は特別支援・協賛企業向けの懇親会を挙行のようで中間幕後の幕間には偶然にも1階の中央通路付近の紳士方の雰囲気にマチネとは異質な違和感を抱いて目視を続行すると突如に通路後方席2列目の人々が一斉起立の直後に所管官庁の孫請財団の渡り鳥理事長が出現して「さすが女帝の威光はかくや」と感嘆の間も無く正真正銘の帝弟夫妻の入場となって本公演のさして変哲もない衣装担当の服飾家も後続して付近は貴賓席の様相に変貌の一部始終を庶民席から観覧。肝心の演奏は地主役が疲労からか第2幕後半の自暴自棄の独唱では前回公演と比較してやや大袈裟ながら別人のように精彩なく覇気が大きく後退するも第3幕ではさすがに一定の挽回の一方で外題役は指揮者の簡潔ながら要所を押さえた手慣れた誘導もあって当日は復調もめざましく主役らしい堂々の存在感を示して中間幕の地主との二重唱も音楽的には男女逆転に変転の他に殊に大詰の独唱では貫禄感すら放出の3時間半の辛抱はこの瞬間のためとも受容の作曲家無類の陶酔感が客席に一気に充満して一応は開幕公演の掉尾を飾る役務を立派に達成して妹役も前回の落胆から歌手らしい発声の域に達してようやく作品の美点を感得。脇役陣では本劇場常連の父親役が随一の出来映えの他に高声伯爵役は歌声に注目しつつもなぜか演出家の指導または許容ながらイタオペ風の身振りが見せ場の共演相手と言える主役のみならず他の独唱陣と際立って異質な世界を形成した他には人種とは無関係に独語発音は不問としてもコントラバス8本の大編成だけにピット空間を越境の歌手と不能な歌手の混在も痛感。それでも素朴に総じて指揮者の芸風から芳香は繊細ながら期待のシュトラウス節も体感できて2回参戦の甲斐ありと相応の満足度を抱きつつ劇場を後にしました。
  「束の間の群青の空秋更くる」 昭成
アフターシアターは、劇場で会った知人らと現地合流の知人も交えて今夏の渡欧楽旅報告会を「新宿ボルコ」で。

新国立劇場「アラベラ」(1回目) ~ 「アラベラ」から「マンドリカ」へ [新国立劇場]

arabella1.jpg10月11日・新国立劇場・4階正面C席
今楽季の国営劇場の初演目に休日マチネの4日目へ世上の雑事に追われてようやく7年前の同劇場での実聴体験では大階段のみを朧気に記憶の上に姉妹登場の田舎青年との婚姻物語程度の茫洋な筋書理解のままに参戦。今楽季の主催劇場での海外演目の3分の1を占有の「ドイツ物年間」とも呼べる作品群かつ楽季の一番打者としては演目自体にはオペラ的な華麗性に乏しく作品選択がウィーン留学経験者と言う新芸術監督の采配かシュトラウス愛好者で著名な物故の前芸術監督の置き土産かは不明ながら開場13年目にして極東の経済大国の来日引越公演での先進性と比較して後進分野の常設劇場でのオペラ興行の成熟化への道程の例証と肯定的に理解しつつ約3カ月ぶりに入場の馴染みの劇場では常用の天井桟敷席へ直行の途上で昨楽季から変化の興行側から見れば改善点を見回すと、1.マナーパンフが増補改訂されて施設案内の追加と共にマナー啓発の描画が1階ロビーに設置のぬいぐるみとの関連なのか猫から熊に変更されて20点の鑑賞行儀を紹介、2.避難経路図が消防法改正への対応なのか上質紙片面刷の座席図面の中に通常の出入口に矢印を付加だけの図示で作成、3.事業仕分けに象徴される事後評価社会への対応なのかアンケート用紙と回収箱が各階のエレベーター前の机上に筆記用具と共に設置、そして最大の変化は、4.最上階の2列目に前列との段差拡大のための高さ10センチ程度の緑色のクッションが座席上に配備されて着席時の快適性を考慮すると2列目席は今後は購入対象からは絶対に除外との決意。肝心の公演はイタオペ派としてはお客様気分で拝聴しつつも聴覚的にはソプラノ陣が不調なのか妹役が籠もり気味の発声によって精細の無い非力に加えて姉役も4階からの距離感に見合った外題役としての存在感に欠けた作曲家が想定の主人公には小粒な歌唱に終わって地主役が風貌と共に辺境地主の荒削りな性格を押し出し良く表出して当日の事実上の主役となる好印象。視覚的には同劇場での「ホフマン」「シェニエ」では歌手陣の演技よりも変化に富んで照明効果の高い大規模な舞台装置に「アルロー漫画」と割り切って好感の演出家にしては今回は予算削減の影響なのか単調で大味的な出来映えに終わって期待外れの感慨の他に演出家の意向なのか団員公募の結果なのかは不明ながら合唱団に中高年世代がごく少数の故に姉妹ー家を取り巻く殊にホテル滞在者が概ね青年層ばかりとなって筋書的には全く不自然な年齢構成の市井感のない群像が現出して最終幕の感興を大いに減殺。楽日へ再訪の方針に若干の後悔と作品理解への期待の混在を覚えつつ劇場を後にしました。
アフターシアターは、夕刻の喫茶となって「珈琲舎 バン 伊勢丹会館店」で。

新国立劇場「影のない女」 ~ 陶酔のないシュトラウス [新国立劇場]

schatten.jpg5月29日・新国立劇場・4階正面C席
オペラ史上に燦然と輝く創作コンビの全7作のうちで実聴最後の本作にイタオペ派なりの好奇心を抱いて参戦。貧民席への階段上にはいつの間にか進駐軍仕様とも聞く薄灰色のコインロッカーが設置されて貧乏感と無粋感を嫌が上にも演出する公営劇場らしい感性に半ば納得しながら着席後に周囲を眺めればワーグナー作品よりもペア客は少数と思えるうえにやはり灰色系統の上着を着た単身来場の中高年紳士が散見されて多くは今世紀の衰亡民族と予測の独語教師を生業とする独文学者然とした雰囲気を放出。昨楽季の予想外の堪能によって予定外の2回参戦となった「ムツェンスク」と同じオケと間奏が挿入される作品構成もあって伴奏はシュトラウスの豊饒・流麗・高揚による陶酔感よりはショスタコの乾燥・冷笑・鋭敏による皮肉感が前面に表出の代役指揮者に失望のうえに削石をうず高く堆積させた7点の台車付き石垣パネルの大々的な移動風景とその作業を担う15人程度の黒子も演出に含めてしまう手法にも共通点を感じるも場面転換の頻繁な第2幕では彼らを舞台両袖中に着席待機まで見せて全編3時間の長丁場を同一趣向では変化に乏しく次第に倦怠感も醸成して大詰では子供ペアのジャンケン遊戯を長々と演じさせて庶民街の張りぼての結合で一軒家を形成させれば終演後に「ヘングレ」の開演かと思わせる浅薄な結末。貴族対庶民の独唱陣では断然に染物師夫妻に軍配となって皇帝役は声質と声量ともに君主然とした威厳に不足して皇后役は乙女らしいとの考慮が精一杯の外題役としての存在感が薄弱で歌舞伎で言えば時代物でなく世話物を拝見の印象。それでも「ショスタコ」で力演の染物師妻役は力任せ的な歌唱となって夫との夫婦関係を忌避する妻の情感表現には相応しいとも思えるも指揮者と同様にシュトラウス音楽で器楽を含めて時に必要となる旋律のややベルカント的な揺らぎやワーグナー的な息の長いうねりによる芳醇な歌声に欠乏。それでも貧民席上手には第1幕後から掛け声をかける中年紳士もいてカーテンコールでは作曲家愛好会の会員諸兄の渇望感が癒されたのか活況の中でやはりイタオペ派にはドイツ・ロマン派の源流とも思える「魔笛」を範とした本作への関心も含めて再度参戦の中止を決意して劇場を後にしました。
  「石垣に白粉掃かす旱梅雨」 昭成
アフタシアターは、喫茶となって「タリーズコーヒー 新宿マルイカレン店」で。

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