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新国立劇場「ピーター・グライムズ」 ~ とぐろを巻く群衆の圧巻 [新国立劇場]

peter.jpg10月5日・新国立劇場・4階正面C席
4日前の主催劇場が今楽季の開幕日の前夜催事として作曲家の母国の在外文化機関との共催で挙行の解説行事に続いて先代監督の20世紀枠を承継の監督自由枠での英国音楽に造詣と定評の当代の面目躍如とも言える20世紀物の平日ソワレの2日目へ参戦。前世紀を代表のオペラ大家の貸し公演を除く本劇場での作品上演は本公演は初登場ながら2001年の小劇場での映像を大胆に利用の現在は廃止の憂き目の若手を起用の実験的企画、06年度末の中劇場での付置研修所が招聘の英国人演出家が絵本のように上梓の修了公演に続く結果的には扱いと成果は会場規模に比例とも思える着実に右肩上がりの慶事と認識しつつ後期ロマン派を以て受容停止の門外漢には「カヴァパリ」から進化の社会劇オペラへの新劇鑑賞にも似た気分で臨んだ当夜の望外の聴き物は現代物らしく本作で殊にオケ好き諸氏には贅沢な御負け的な魅力と拝察の6点の間奏曲での名称にも由来の伴奏楽団の元来の成り立ちを想起の管弦楽に象徴のピットの冴えた音響、ロッシーニ以降の群衆が主要配役の一人に昇華の作品群の頂点とも思える作品として村民が登場の場面での独唱と合唱の併存にミュージカルにも通じるイタオペ流儀のコンチェルタートの構築美とは異なる劇的展開の立体感と共に演出の幕切れが「コジ」では喧嘩破局または交換成立との変容にも共通の当世風の脚色とも思いながら振り返れば先代監督期からの借物公演に眼福の外れ無しとの感慨に国際慣習は不案内ながら共同制作方式を採らない全くの借用舞台も当劇場初御目見えならば新制作との看板付けの劇場慣行とは言え今回は開幕興行に相応しく演出家が直々に滞日指導との手法に殊に先代以降に顕著との一入場者の経験則ながら半可や大家の外国人と邦人とを問わずに少数の例外は認めつつもやや背伸びまたは身内感覚などに根差した新規発注よりは既に定評を獲得済みの舞台を借用の方式との完成度の落差の実感に基づく新制作経費の方向転換の有意性をさらに強固に再確認の副産物も生じつつ3年前の「ムツェンスク」と類似の満腹感を抱きながら劇場を後にしました。
  「村ぢゆうを洗ひ清めて野分あと」 昭成
アフターシアターは、国道を挟んだ劇場向かいの「オステリア スミヴィノ」で。

新国立劇場&中国国家大劇院「アイーダ」[演奏会形式・省略あり] ~ 堂々の中華大陸アイーダ [新国立劇場]

jp-chaida.jpg7月27日・新国立劇場・4階正面D席
楽季末らしい研修発表会が中心の4日間で5公演への初戦は酔狂とは思いながらも全くの週末前夜の暇つぶしとして国交修復の周年事業として欧州諸国との「日本におけるイタリア」などとは格上と思しき「国民交流友好年」と賑々しく命名の枠組の一環行事として今楽季を終了の東京国立歌劇場での自国から大陸の隣国へと順次に披露と言う両国人が共演の国際交流催事の初日へ参戦。終演後の懇親会を優先の措置かは勿論に不明ながらワーグナー物の平日マチネで慣行的な公私の企業体の通例では終業時刻または同時刻以前に開演との祝祭行事への集客よりも主催都合を優先とも思える共催両国に共通の東亜の官治文化に根差した時間設定では要人や関係者が列席の式典色が濃厚の雰囲気と拝察の平土間とはおそらく対照的な演奏会形式での低廉もあってか天井桟敷は空席の目立つ沈滞気味の空気に包まれて専らの関心は2週間前には初演が本作から約20年後のヴェリズモの代名詞作に出演の3年前の知人からの情報と3カ月前の端役で実聴の当夜の失恋王女役に絞って暫時の待機。2年前に大陸側の発議に呼応の島嶼側の選曲・趣向との経緯の中での配役は外題役の供出からの作為の結果なのかは不明ながら主要役では最列位の国王役を人数調整の例外として今次大戦の史実とは正反対の前者が敗戦国、後者が先勝国に区分の6人が分担のまずはエジプト王国での筆頭配役の将軍役は昨年のタンホイザーを彷彿の「主筋よりは脇筋の公演で実力発揮」との知人の慧眼を実証の邦人歌手としては余人を以て代え難い後期ヴェルディの重労働の役務にも手慣れ感の出演経験を反映の予想外の好演で完遂ながらその娘役は恋敵との冒頭幕の三角関係重唱や最終幕の審問場面の省略措置に折角の晴れ舞台が縮減の結果に彼女を目当ての聴衆にも憂き目とはいえ年齢も考慮での体躯を生かした邦人離れの豊穣な歌声と迫真の表現を発揮の演奏会形式とは言え研鑽機関の親舞台で主役級の見事な凱旋公演を実現、対するエチオピア王国を代表の外題役は独米での活躍が証左のロッシーニ作品と同様な祖国と恋情の狭間で逡巡の乙女の痛々しさと一国の王女らしい凛々しさが併存の大劇場でも万全の力強く響き渡る貫禄の歌唱ながら好みの問題とは言え平行幅で推移の長音に象徴の殊に大陸に出自の歌手に特徴的とも思える迫力は十二分の一方で一本調子的な歌い回しに伊語の情感は喪失の終始にイタオペの楽興には未到の決然の歌声をひたすらに威儀を正して拝聴と同時にその父親役はさらに表現は劣位の同様な歌唱に加えて指揮者の聞き手を意識の筋書の語り部よりも自身の熱情の一方的な伝達感に勝った大陸風の防寒着を着衣のような分厚く鈍重な音楽に作品への関心薄も手伝って予想どおりに倦怠の時間も発生。無料パンフに拠ればオスマン帝国から半独立の回教国家が建設の歌劇場の柿葺落に仏人文化人の原案の伊語訳での当時の仏人と独人のオペラ大家への対抗心から受注のイタオペと言う露帝室からの特注作にも増して作曲家の他作とは隔絶の19世紀後半の国際的な一大催事の観光オペラには波状音楽の醍醐味は無用とも思い直してナポレオンの敗走を棄却の旧帝国陸軍も陥穽の大陸国家の底知れない地響きに疲労感も覚えながら劇場を後にしました。
  「灼熱の土用丑の日波鎮む」 昭成
アフターシアターは、折角の早仕舞いに斥候的にやや遠出の「ハンバーグ ウィル」で。

新国立劇場「ローエングリン」(2回目) ~ 光陰対決へ収斂の舞台進化 [新国立劇場]

lohengrin2.jpg6月10日・新国立劇場・4階正面C席
中9日を空けて外題役の見方によっては特異とも思える歌声の再聴を目当てに入場券入手後に公演認知のアマオケの「オランダ人」を振り切って週末マチネの4日目へ参戦。大公女役は前回よりは安定の実力相応と思しき歌唱、低声三人組は本劇場で合唱の声質との違和感を初めて明瞭に感受の総じて声を張り上げた荒々しさに傾斜の却って劇的効果に乏しい歌唱と拝聴。伴奏によって物語が朗読の展開ながら前回との比較ではロッシーニ流儀の冒頭幕の大詰は神意宣託後には豪勢な音量ながら歓喜の放出の中に型枠に押し込められた形式感の遮壁に客席での楽興は半ばで頂点、続く中間幕の幕開けは指揮者への階下での無粋な賞賛と非難の掛け声の個人的な応酬合戦で満場に水を差しながらも古代神に帰依の伯妃が共謀役と標的役から人間的な感情表現を引き出す念力を発揮して前回よりは迫真感が向上の結果として作曲家の観点では正邪の昼夜または男女に象徴の宗教対立が前面の前回以上に「魔笛」の世界が濃厚化の印象、第3幕への前奏曲では疲労のためかトレモロ音は光輝に欠乏ながらも主役ペアの破局幕として白衣の騎士がほぼ終始に牽引の前半での私邸内で初夜の愛妻を前の新郎の会話、後半での平原上で出陣の軍勢を前の英雄の口上との公私の各々の場面で超能力を具備の聖杯騎士の異界人としての超人性を伝播の歌唱で魅了してカーテンコールでは勿論に天井桟敷からの大歓声が歓迎。主催劇場へは当日が今楽季最後との感慨よりは3カ月後の養父の聖杯騎士叙任譚への期待と不安を抱きつつ劇場を後にしました。
  「去りてなほ心の空に虹光る」 昭成
アフターシアターは、新宿に戻って目先を変えて「王ろじ」で。

新国立劇場「ローエングリン」(1回目) ~ "神前興行"のようなオラトリオ感 [新国立劇場]

lohengrin1.jpg6月4日・新国立劇場・3階上手D席
今楽季の主催劇場での最後の洋物に4カ月間での作曲家の聖地音楽祭で演目化の楽劇以前の中期3作を俄かワグネリアンとして集中体験の好機のいよいよ最終作への頂点感も抱きつつ諸事調整の上で本劇場には2カ月ぶりに平日マチネの2回目へ参戦。直近演目の「ドンジョ」と同様に同名役で既に檜舞台に出演の外題役歌手を一枚看板に起用の販促活動の大作ながらも目視の範囲ではほぼ空席の平土間後方の下手区画に加えて精妙な前奏曲から早くも有料パンフの紙捌き音、足元の荷物移動音、隣席婦人との私語、早々のまどろみなど平日マチネの現状を再認識しつつ第3幕への前奏曲での私語制止音、本作展開上での頂点とも思える禁問破りの聴衆注視の静寂場面での病院の待合室とも錯覚の客席各所からの咳や咳払いには微笑ましさすら湧出。8カ月前の南独からの来日公演での同一役で好演の巨漢とは一面では対照的に登場までの発端の筋書展開の後に喧噪場面から場内の空気を一変の客席までも含めた俗界の人間たちの"待ち人来たる"の蝶々夫人との両性での双璧とも愚考の作曲家一流の音楽的演出に乗じて吊り籠に搭乗の客席に背を向けた開口時には思いがけずも出自ではザラストロの光王国を継受のタミーノの末裔を連想と同時に声質では教会の少年合唱隊と相似の三人童子の成人型とも想起の神性具有者らしい世俗から乖離の当代無二の第一声に加えた空中からの出現での異界効果は絶大。相手役は冒頭幕での一本調子で不安定な歌唱から休憩を挟んで自身の幕とも言える第2幕での花嫁姿での登場からは本領発揮と思える唯一神と古代神との自領を巡る宗教戦争に翻弄の悲劇の大公女を名実ともに圧倒的な存在感の新郎役の庇護下で影が薄い新婦ぶりを披露。情景描写を一手に担当の伴奏は老練指揮者が英雄の悲恋を綴った絵本をじっくりと読み聞かせるような楽譜に精通の語り口によって稲作民族のオケらしく気宇壮大や豪壮華美や粘着執拗や振幅剛胆とはほぼ無縁ながら高揚形成への自然な運び、場面内容に応じた音色変化、舞台進行を引き立てる舞台との一体性との観点ではオペラ伴奏として成立の敢闘。美術は偶然にも今楽季の開幕公演の同国人と同様に旧同盟国での上演への配慮による異文化人の発想に根ざした日本文化を連想の趣向が混入とも拝察ながら視覚的には竹に木を接ぐような違和感が増幅の第1幕は4カ所に配置の畳形状の一畳大と半畳大の照明管入りパネルを10枚程も積み上げた上に鎮座の国王とその脇に起立の伝令役にはカナダ帽に似た髪型と丹前を纏ったような出で立ちの牢名主と腰巾着との関係を想起の構図、第2幕の婚礼場面での女声合唱陣の熨斗風の髪飾りは色使いから遠目には祝儀と不祝儀との2種に見えて悲劇の結末も暗示かとの精一杯の解釈、男声合唱陣の黒色の清朝帽子は前頭から頭頂を経て後頭を結ぶ太い白線に因って赤穂浪士の討入場面を連想の群像と拝見、第3幕では深海の海月を連想の3基を配置の折紙風の巨大な装置には御節介感も湧出の落胆以上に肝腎の照明は曖昧な色調による主役の登場には白鳥、第1幕の幕切れでは花火、妖術には紫煙と才気を微塵も感じさせない平凡なネオン照明に全くの拍子抜け。再訪を予定の次々回では主役の歌声の再聴のみを期して薄暮の俗世へ劇場を後にしました。
アフターシアターは、最寄駅線との乗り入れ線で足を延ばして「レストラン 七條」で。

新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」 ~ 千変万化の長丁場 [新国立劇場]

dongio.jpg4月27日・新国立歌劇場・3階下手D席
2週間前に続いて週末の暇つぶしとして「大型連休前半三連戦」の初戦に主催劇場の第2代芸術監督時代のソプラノ歌手を彷彿の今回来日中に外題役の100回達成との慶事も販促材料に加味の一枚看板扱いのバリトン歌手を見物の機会にモーツァルト枠での3年半ぶり再演の5回公演の4回目へ参戦。果たして注目の外題役は5カ月前の米国の舞台映像での全体印象と同様に当夜でも従者変装アリアが真骨頂の抜群の運動能力を顕示の切れ味の鋭利な動作で舞台を縦横に小気味よく移動しつつも農民を翻弄の眼力に優れた表情とはまり役らしい安定の歌唱によって本役よりはむしろ従者役として天下一品との確信をさらに強固の出来映え、対する貴婦人役はオクタヴィアンを連想のズボン役に相応しい颯爽の登場場面でのやや乾質な歌声から後半幕の詭計の逢引場面での懸想相手との大願成就に見せる女性らしい湿感の裏返しとも言える見せ場の献身決意アリアではアコンパニャート部でのオケが保たない程の遅速での緊張感を醸成の一方でアリアでの中間部との対比感はやや薄弱ながら母性本能の発露のようにも見える天使の境地とも感受の中性的な存在感を経て大詰五重唱での短尺ながら主役の想い出を胸中に尼僧生活を暗示の未亡人にも似た女性らしい湿潤な歌唱へと筋書を反映の本作の登場人物で最も変転の内心変化を良く表出、対する高声騎士役は4年前の「椿姫」と同様に絶不調でのか細い声量とひ弱な声質のままに許嫁からの全幅の信頼を獲得できない大望の先送りも首肯の大団円での唯一に自らの現実に悶々の本作で最も悲劇的な存在と精一杯の解釈、対する令嬢役は主役の姦淫を実証とも類推の当夜には場違いな程の艶妖感に俄然に傾聴のこれら貴顕組への無彩色風の照明が効果的な四重唱では立ち位置もあって「ボエーム」の二重の二重唱を連想の立体感に溢れて続くアリアのプリマ役は低音は掠れて声質はやや貧弱なものの自家薬籠中とも言える黒衣もあってか表現主義映画の役作りを連想の"聴きもの"と言うよりも"見もの"に近い夜女を想起の劇唱によって予想外の前半の白眉の時間として拝見。伴奏では序曲は偶然にも当月前半での「オテロ」と共にベネチアに設定変更ながら運河の澱みを連想の重たいピリオド的奏法では初経験の強弱と緩急のみが変化の生気喪失の平坦的な音楽に落胆ながら後半幕からはオペラ公演では時折に遭遇の休憩で一変の当夜は指揮者の督励の有無は不明ながら「奇跡の25分」とも言えそうな聴衆には天恵の時間が過ぎて悪漢主従二重唱の会話から別物のように舞台に生命感が醸成の到達点として地獄落ちの場面では前半の見せ場のアリアで"カタログ"に記載の女性連を生き生きと描写の海外劇場と契約中との邦人若手の従者役が終盤では時折に燃料切れながらもオペラ史で有数の演出上の見せ場での聴衆の耳目が舞台中央の主人に集中の状況下で上手端の装置脇で終始に眼前の亡霊に総毛立つような恐怖心が全身から放出のパパゲーノを連想の庶民感覚が横溢の演技を実見しながら本場の勧善懲悪譚としての迫力の構図での絵本を愉しむような感覚を初実感の立役者とも愚考のオペラ歌手としての適性を感受の今回公演ではやや年長と思しき主役からの助言機会も利用の声域的にも今後の頭角と末永い活躍に関心と期待。カーテンコールは12月からの再演5連発での参戦公演の中では最多の掛け声との想定外の出来映えに赤縁眼鏡の目立つ新進指揮者のほぼ全ての楽団員との手振りを含めた視線挨拶を遠望して納得の出来映えに満悦と慰労の表情とも拝察しつつ"蛇頭竜尾"の紆余曲折の一夜を振り返りながら劇場を後にしました。
  「右左古都我がものに春疾風」 昭成
アフターシアターは、降雨を避けて手近に隣接ビル内の「面影屋珈琲店 東京オペラシティ店」で。

新国立劇場「オテロ」(2回目) ~ 水を使わない運河舞台の奇妙 [新国立劇場]

otello2.jpg4月13日・新国立劇場・3階上手D席
6日前の週末マチネに続いて新制作時には屈指の贔屓作への勢いにも乗じて都合4回を堪能の一昼夜を明瞭に再現の照明の下での筋書から着想とも拝察の"蜘蛛の巣運河"とその中心の回転塔によって一杯飾りを巧みに変化の舞台の再見機会と同時にそれ故の唖然の背信演出を再確認の衝動にも抗し難く万障を繰り合わせて着座からの視野では平土間の下手区画から3階正面の両脇区画はほぼ空席の平日マチネの楽日へ緊急参戦。幕開け当初はロッシーニが創始と聞く開幕合唱曲の一頂点とも認識の大合唱では平生の席位置と舞台とのほぼ中間地点での音響と音塊に違和感も覚えつつ「50トンの本水使用」と豪語の宣伝文句が空虚に響く資金難と側聞の一方で経費節約の偽装水路でも充分に機能可能とも愚考の本水効果が喪失のペラゴロ人生に刻印の再演での演出の変容は思い付くままに、1.歌手の運動能力の影響とは思いながらも酒宴場面での敵役の事件の首謀者としての一挙手一投足に切れ味は皆無、2.相聞二重唱での上手食卓を利用の夫妻和合を明示の姿勢の省略や歌手の個性とも思いながらも夫人役の当初から憂愁感が全面な表情付けなど後続幕での悲劇との落差の御膳立ての対比感は稀薄、4.第2幕の前奏などでの先年公演では天井桟敷から大道具組を密やかに激励の造波装置での水音の音量調整に苦心の試行錯誤を放棄の故かドブ川と化した運河からは水流音は消滅、3.同幕の幕開けで巧みに表現の「三一致の法則」を再認識の払暁の朝靄から早朝への移行照明と悪役の登場時の時分感と待機感を映画的に表出の歩行喫煙は欠落、5.「クレド」終盤での旗手役の上官居宅の壁面への苔色塗料での手書きの十字架は3回目とは書き順が逆の縦から横への変更に加えて縦横線がほぼ同一の赤十字型の上にさらに縦線の書き出しがくの字化の故にもはや演出意図の図形の連想は困難、6.同曲後での同役の塗料が付着の指先洗浄は先年の歌唱中に持ち上げたバケツを利用の後にそのまま十字架洗浄への円滑的な処理から放水後に直接に運河へ屈伸の行動変更によって無粋な洗浄音の発生と同時に場面移行の緊張感は喪失、7.同曲以降での敵役の以前に経験の同役への演出を反映の結果とも推測の狂人化への眼差しと所作の深化によって原演出者の意向は放擲、8.第一波攻撃の疑念生成を経た第2幕の混声合唱と栄光決別歌での時間進行を中断の幻惑的な照明表現を背景に外題役の愛妻の浮気妄想を可視化の前者での合唱との筋書を情夫との関係に読み替えた夫人の淫婦性を強調の大胆な素足露出と副官からの宝石袋を受領行為や後者での彼女自身から邸内に誘引などの細やかな指示に基づく黙演はほぼ全滅の故に演出意図の聴衆への伝播は後退、9.同幕の主役夫妻二重唱とその前後の主従夫妻四重唱での台本の意味内容を体現の人間心理に根ざした日常的な所作と表情の表出は大いに減退の上に主役はハンカチを運河に投げ落とさずに下手の一段高い街路に置く行為への変更によって敵役が水面から棹で掬い上げた布をその妻が受け取ってさらに夫が奪取との一連の策略の象徴物と本演出での運河を結合の聴衆に証拠物件を印象付ける演出処理は消滅、10.第二波攻撃の目撃証言後の盟約二重唱では部下の先年公演での先行して膝立ちの上官の背後で見下ろす構図から上手後方より眺める立ち位置の変更によって前半の大詰での上下の逆転関係の可視化は減衰、11.第3幕の第三波攻撃の証拠提示での謀反人の先年での頭上にかざす行為からハンカチの早々のポケットへの仕舞い込みで客席への物件提示は不発、12.同幕の本国辞令の黙読場面での主役の苛立ち感は皆無の様子での先年での運河への落下時の副官の驚愕表情と掬い上げ行動から棒立ち的な無表情での捨て置いたままへの変更のために自然な感情の発露と聴衆の重要書類の投棄行為への認知度は低下、13.続く嫉妬の夫からの罵倒で虚脱の潔白の妻は先年のプロンプターボックスへ身体を預ける姿勢からその手前での位置変更によって呆然自失の悲嘆歌唱の情感印象は縮小、14.コンチェルタート後での上官の愛妻への呪詛発言時に敵役の頭部傾斜角度が最大化の所作によって悪事の成就確実感と同時に心神耗弱が誘発との推量可能な逆臣行動の根本原因は矮小、15.同幕の大詰での決め台詞の悪役は橋桁上で気絶の主役から離れて大物の獲物を他者に誇示の狩人のように上手前方から客席に向かって上官を指し示す大見得は消滅して勝利感の聴衆への訴求力は失滅、16.続く幕切れ直前での奸臣の先年での悠然と歩行後の上手後方から悶絶上官への慇懃無礼な一礼から総督夫妻の椅子へ移動後に奥方用を強く後ろ倒して夫君用に深々と着座への完全変更によって策略の動機は変質、17.「柳の歌」での夫人役は先年での寝装の裾をたくし上げて運河内の移動を廃した柳と不可分の僅かな水音をむしろ雑音として拒絶とも思える陸上歌唱への変更によって本演出の独特な情感は衰滅、18.同曲後の侍女の退場では夜道の中で帰路の太鼓上での主人の憂鬱が気掛かりの帰参の逡巡行動は省略、19.続く祈祷場面での妻役の先年での寝台上での横臥歌唱から中盤には上手の月光が差し込む窓に向かってフェルメールの美人画を彷彿の夫の救済を祈願の一場から単純にベッド前への立ち位置の変更によって音楽と合致の宗教画にも擬せられる視覚上の静謐感は消失、20.侍女の殺人通報での太鼓上への移動とその夫の上手居宅の2階の窓からの呼応は何れも玄関前に変更の簡略化によって事件発覚の騒動と謀反人の計略達成の吉報待機を可視化の立体的配置は削除、21.続く自害場面での外題役は「柳の歌」での配偶者と対称のように先年での運河内に聳立の刺腹から瀕死状態で右半身を水路に沈ませながら居宅前の橋桁に仰向けの亡妻に向かって水中前進の末に何故か公演日での結末の相違も想起の結果的には無理心中夫婦の接吻旋律での指先接触での歌詞の代替行為から専ら陸上での立ち回り後に絶命時に漸くに橋桁の上手側から足を運河に差し入れながら自身の上半身を愛妻に重ねる構図への変更の故に手遅れの相思相愛への回帰の静寂音楽の中で移動時の水音が醸成の大団円に至る独特の余韻は放棄、との変化を目の当たりの結果として水張り運河はもはや"無用の長物"との感慨に夫役は本水に全身を浸したくないのか、妻役は聴衆に下肢を見せたくないのかとの疑念も生じる程の徹底性には脱帽ながらオペラには邪道とは承知しつつも本水や本火から発生の僅かな自然音が板上の情感を倍化とも思える殊に大詰での思い起こせばピットでの懐古的なつい前夜の接吻旋律との結合によって名画「ベニスに死す」の入都映像にも共通なベネチアという都市を象徴の聴覚上の表現以上に事件発覚の喧噪から英雄の自害への急転直下の最弱音の中での水音が却って悲劇の一夜の静寂と英雄の純愛を聴衆に伝播の上演国に顕著な美意識にも通底の映画的な効果音の放擲とも愚考。さらに演出家が効果を重視と言う照明は新制作時と同一の邦人原案者が担当ながら外圧なのか演出意図を反映の例えば妄想描写での前後場面との対照、コンチェルタートでの旗手の復讐助言と騒動教唆の2カ所で暗転風の中での会話の2人のみへの照射、「柳の歌」後の侍女の退場時での燈火が目立つ程の暗闇での中央塔の浮上、主役の自刃後から夫婦の各々への照射が幕切れの接触と同時に合体との何れも明暗を強調の鋭角的な照明処理が時に対照性の判別困難な立体感を喪失の明度設定への変更によって劇的展開感では別演出のような印象。独唱陣では盟約二重唱での母語の不明瞭な主従役は楽日の故か疲労気味の様子で全く高揚感を生成できないままに休憩入りの上にピットは前半の大詰の威勢良さとは対照的に後続幕での主役と夫人の各々の嘆きには憐憫の情感も無く淡々と進行の劇伴感の稀薄な音楽によって贔屓曲の堪能には前回と同様に女声陣に頼りつつ被害者役はこれまでの同役での出演経験に基づく終始にわたって無実の悲劇の主人公を強調の清楚な困惑の貞女の表現に対して侍女役はやはり最終幕の登場場面ではヴェリズモの登場人物を彷彿の歌唱ながら自身が主役化の堂々の好演。遅まきながら初めて強烈に体験の再演での原演出の溶解的な変質に業界での許容範囲の寛容度に驚愕と同時に唖然かつ愕然の一方で贔屓作の正常再演を切望ながらも前途暗雲の劇場経営の中で三演は至難とも予測の複雑な気持ちを抱きつつ劇場を後にしました。
  「桜冷え運河の街の波止まる」 昭成
アフターシアターは、新宿に戻って「渡邊」で。

新国立劇場「オテロ」(1回目) ~ こんな「オテロ」に誰がした [新国立劇場]

otello1.jpg4月7日・新国立劇場・4階正面C席
桜前線到来の週末の暇つぶしとして2年半前の新制作時の外題役が"上野のワーグナー"で滞日中との奇遇と共に前回での夫人役を筆頭に"オテロ・トリオ"の好演の記憶も想起しつつ国際事情のリーマン・ショックと国内状況の大震災を画期に今後のペラゴロ生活ではもはや再来は望み薄な佳き時代への懐旧感に加えて贔屓作の故の出来具合いへの危惧感も入り交じりながら5回上演の再演の3回目へ参戦。果たして再演担当の創作意欲か出演歌手または劇場諸部門からの要望かは不明の上に業界慣行にも不案内かつ演出家との意思疎通の状況も未確認ながら稽古日程の制約は承知しつつも結局は4回を拝見の楽季開幕を飾った前回との比較では敵役の「狩猟本能」を展開の軸に据えた演劇畑出身で銀幕界でも活躍の伊人演出家への背信にも思える改竄が散見の"蜘蛛の巣運河"の再登場に愕然の一目瞭然例は旗手役のクレド場面での上官居宅の壁面に苔色塗料で手書きの十字架は前回の同名役の旧教信徒と推測の伊人らしい明瞭な筆致から一変の中近東出身との"正教会系"教徒と推測の故か縦横の両線の長さがほぼ同一の十文字と言える変形描画と書き順の相違に本作の名場面と定評の自身の見せ場での状況設定に無顧慮な行為に唖然としつつ表情と所作に「善人の顔をした悪人」では無く信条場面以降から深化の無声映画での「ノスフェラトゥ」をどうしても連想の直立姿勢での頭部傾斜と生気喪失の眼差しを伴った時に歩幅の狭い足取りの狂人化が進行の勇将に対峙の敵役の矮小化と共に第3幕の幕切れの前回での横臥の将軍の枕頭から最後の名台詞には舞台前面での聴衆への大見得に続く悠然の上手奥への移動と閉幕直前での失神の上官に向けた慇懃無礼な一礼との後期ヴェルディの豪壮伴奏に見事に合致の伝統的な推移ながら一連の立ち位置の変更によって視覚上の変化に加えて獲物の討ち取りのみが目的の狩人本能の発露行動にも適合の得心の大詰処理から変容の今回は何故か後奏では大使を接遇の将官夫妻の椅子のうちで夫人用を一気に後ろ倒しの後に将軍用に着座への行動変更に因って顛末の原因が敵役の出世心とも思える翻案演出の移植には歌手の自発的表現の許容も含めて憤懣の一語。さらに伴奏は前回の天才肌の伊人から職人的な英人に変更の結果として聴き進むうちに思わずにモーツァルト作品を連想の楽譜の縦線を重視の合奏の正確性と緻密性が前面に突出の一定の枠内からは絶対に逸脱の無い内向性、第3幕の前奏が好例の天井桟敷まで指揮者の唸り声が時折に到達の割には音楽自体は時に展開とは全く無縁にも聴こえる実に理性的で感情表出の稀薄な客観性、ヴェルディの晩年2作で定評の出色の台本に立脚の雄弁なピットと演劇的な板上との対等関係よりは"声唱器随"とも言える中期以前の作風と同様な伴奏役割に徹した後方支援性の特徴にイタオペでの音楽的な安定感に溜飲を下げた諸兄姉も存在とは思いつつも好みの問題ながら反面で本作の醍醐味を相当に封印の方針に後半に比重の緩徐場面では奏功の一方で例えばオペラ史上随一とも言える開幕合唱での爆発力、プッチーニへ後継の相聞二重唱での幽玄性、混声合唱での伴奏楽器を模した律動感、主従両夫妻の四重唱での起伏性、盟約二重唱での破壊力、外題役の愛妻喪失独唱での懐古感、夫婦不和重唱での夫人の絶望独唱への同情性、コンチェルタートでのロッシーニから連綿と継続の無伴奏的な心情吐露の多重唱から全員総出的な音響の大伽藍に至るオペラの醍醐味の一頂点の場面とも言える地を這うようなオステナートから落涙旋律がうねるように全開の高揚感を形成の構築力とその頂点での豪壮性の何れもが喪失の整序の伴奏には傑作の十全な再現には未到のままに欲求不満の拝聴。独唱陣では昨楽季の「コジ」での被災地への勇躍の代役来日の記憶も想起に加えて興行事情には不案内ながら実に慶事の3年前のヴィオレッタと全く同一の配役変更で登壇の夫人役は登場から瑞々しく清楚な声質と伸びやかな節回しによって当日の"天使"とも言える救世主として弱音も実に鮮明に数十メートル先の歌声が数メートル前に聴こえる声楽家らしい発声ながら全般的には総じて感情表現に平板の中でも第3幕前半でのヴェルディ節が魅力の落涙旋律の表出には小振り感を感受の一方で最終幕は独壇場として祈祷歌は静寂の中で一途に家内安寧を祈願の純真無垢な心情が聴く者の心の襞に沁み入る歌唱で当日随一の一場を創出とも受容、その侍女役はコンチェルタートでの望外の生彩感の頭抜けた強声、最終幕では事件発覚場面でのヴェリズモ物とも錯覚の緊張の一場を創出の少なくとも邦人最強の同役として傾聴。難役の外題役は前回でのヘルデン歌手の不器用かつ不安定ながら演出家の直接指導の下での役柄の愚直な性格を体現の登場時には体躯と同様に勇将為政者の圧倒的な存在感から本作名物の注目の第一声は準備不調とも思える不発ながら再登場時の強声から以降は他の歌手陣との対峙になお勝る強靱さには未到でもスピント歌手として慰労に相応の歌唱、その配下の旗手役は前回での台詞の一語一語の吟味が伝播の上に痩身での行動の敏捷性も加わった堕天使的な知性を感受の本作の狂言回しとして作曲家が当初は外題役に設定との逸話にも納得の好印象から狂人的な所作は脇に置いても騒乱説明での開口の神妙さ、浮気暗示での上官を立腹に誘導の迂遠さ、物証提示での相手の現認を確実化の狡猾さ、将官悶絶での展開上の決め手の台詞への無思慮に聴こえる歌唱に面従腹背の事実上は主役にも等しいオペラ史上で稀代の悪役としては論外な主役の近習との印象に留める単なる謀反人の領域での存在に落胆、男声脇役陣では副官役は本役に期待の優男的な突き抜けるような明るい声質に不足の歌手本人と言うよりは配役決定権者の舞台効果への視座の発露とも愚考の一方で大使役には役不足とも拝聴の相対比較として将軍役よりも堂々の歌唱と体躯から醸成の本国の貴族文化を体現の威厳と風格を具備の上意伝達役としての役柄を実感の存在感に刮目。当日の出来映えの天使と悪魔が明瞭な二元的な感慨に前者への外題役の絞殺心理に得心しつつも贔屓作の魅力には抗し難く内心は複雑なままに歌手間で起伏の少ない客席の反応を確認して劇場を後にしました。
アフターシアターは、劇場で会った知人と喫茶となって手近に「エクセルシオール カフェ 東京オペラシティ店」で。

新国立劇場「さまよえるオランダ人」 ~ 悲劇が浮上しない幽霊譚 [新国立劇場]

hollander.jpg3月14日・新国立劇場・4階正面D席
偶然にも10日後の「タンホイザー」と合わせて作曲家聖地の演目群では最初期2作の連続拝見の前半戦として半月前の予習行事の記憶も朧気に5回上演の中日の平日ソワレへ参戦。世間注目との若手指揮者は3回目ながら全編凝縮とも言える古今で屈指の名序曲では劇場で合った知人には「よどんだ流れ」に映じたバルト海の暴風雨を想像の自然描写、番号制を踏襲の劇中旋律での歌謡性、金高弦低とも言える伴奏音型の沈潜化による音色の立体感、アインザッツの精緻さの何れにも欠乏を極めた惨憺の凪状態の結果として頂点感に未到の結末に本番とは思えない完成度とも拝聴の落胆傾向は前半も継続して「ファル」の金貨が介在の同様場面を彷彿のイタオペ風な低声二重唱での歌唱の輪郭感が茫洋な途中降板の不調の船長役を気遣ってか弦楽器の伴奏音などのピットでの楽調変化による場面描写が皆無な平板感、独唱陣も乗れない生気を喪失の沈滞の音楽が劇場空間を漂流のままに順風感も微弱な木管の装飾音の軽快感とティンパニの再度も強打の滑稽感も湿りがちに終結感の稀薄な意気消沈の男声合唱によって聴衆への配慮目的と言う演出上の措置による一旦の閉幕。後半は青春の息吹を放出の猟師の登場から三角関係の葛藤を伝播のオペラらしい舞台の出現に一転とも拝聴して自身の登場以降は主役とも言える船長娘役は貫禄ながら不安定も併存の大仰な歌唱、対する外題役は登場のアリアでは永遠の苦悩への慟哭表現には欠乏ながら若手らしく精悍な表情と母国の思想史でかつての同世代に蔓延の虚無主義者のような内省表現で中高年歌手とは相違の清新な印象を抱きつつ臨終場面では「ボリス」の同様場を連想の出来映え、その恋敵役は明朗で伸びやかな歌声に好感ながら欲を言えば第5番の二重唱での失恋への懸念や最終番の大詰前での片想い相手への未練は客席には未達のやや残念な歌唱。前月のイタオペ屈指の豪壮後奏に続くドイツ物有数の豪快場面の最高潮でのまさかの震度3と聞く大地も酩酊の共鳴舞踏に昨年を画期の極東列島が直面の新時代を再確認の得難い体験の連続も記憶の休憩以降は気が付けばピットでは番号オペラに果敢に挑戦の若手らしい活力が横溢の想定外の展開に世評の期待に得心の感慨から愛好作も一因の主催劇場では今楽季で最良とも位置付けつつ予定外の楽日での再訪も検討しながら劇場を後にしました。
  「海原も地をも震はせ涅槃西風」 昭成
アフターシアターは、予定店が閉店のために手近に隣接ビルの「信州そば処 そじ坊 東京オペラシティ店」で。

新国立劇場オペラ研修所「フィレンツェの悲劇」&「スペインの時」 ~ オペラにお邪魔な恩師の押し付け [新国立劇場]

spain.jpg3月9日・新国立劇場・中劇場2階下手Z席
昨年の震災前日と同様に国費研修生の年度末修了公演の初日に8年前までの本企画の定価と同額の当日券で平日ソワレへ参戦。増税論議が先行の一面では「貧すれば鈍す」の格言どおりとも拝察の予算難に加えて殊に先進国で憂鬱な景気低迷による民間資金の流入不足と興行収入の前年比減少に起因の観客動員数と研修生の出番場数との二律背反的な側面とは別に部外者には経費節減活動の一環とも思える公演日の1日縮減、指揮と演出の外国人から邦人への変更の下で25枚程度の当日券客を前年の平土間の両端席での区画から全席均一料金の関係からか幕見客のように上階封鎖の2階席の一角に集中の措置に身を以て価格に相応の賤民感を否が応でも自覚しつつ係員の監視下で奇しくも共に本劇場での前半演目では「スキッキ」との設定都市で括った7年前の二期会の二本立て、後半演目では作曲家で統一の創作バレエと並立の8年前の異種共闘を乏しい記憶力から再生しながら当夜は同時代作品での「愛妻の浮気」が統一標題とも解釈して行儀良く待機。階下を覗き込むと7割程度と推測の客入りの中で初日でのゲネプロ感も漂流の幕開けとなって演出は座付の創造よりは再現に、研修所で3人の専任講師格の一角との興行よりは教育に軍配の力量とも愚考の才人の覚悟は抱きながらも当夜は悲劇で大団円への意気込みを断念の結果なのか題名並記の文字数での視覚的安定を優先の判断なのかは不明ながらチラシと無料パンフでの喜劇から悲劇への記載順序とは逆順の構成に各編の幕開けではまさかの10分程度の演劇研修生による独語物には「ナイン」、仏語物には「ノン」の唐突な原語挿入もご愛嬌の邦語での寸劇が付加のオペラの開幕では禁じ手とも思える手法が選択されて聴衆の非難を賞賛または自身への勲章と錯覚とも拝察の演出家の創作劇を強制の想定外の苦行は悲劇から喜劇への進展を暗示の居丈高の市長が掃除人へ、不良的な青年が子供へ、民族主義的活動家が花売り兵士へ、軍人隊列が下北沢の場末舞台が最適なちんけな市民群舞への役柄転換の他に両作の独唱陣の他作の群衆への混入もお手軽に古代神の石像が住居内で着席の意味不明な演劇の展開の一方で上手手前の狭隘な室内空間を専ら主舞台化の本編は個性とも愚考の性行連想の直接的表現の他はほぼ伝統的な展開に従って第12期生の晴れの修了公演に水を差すような唯我独尊的な負の効能を発揮。前半作の商人役は多弁の難曲に果敢に挑戦の末に肝腎の決闘場面でやや体力消耗感ながら体躯も加勢の作品の軸としての存在感を保持、その妻役は一触即発の室内で三角関係の頂点として双方を取りなす紅一点の健闘、王子役は雲の上の存在らしい伸びやかな高音に魅力、後半作は修了生も加勢の総じて安定感に勝って既に活躍の先輩連は別にしても2人の修了見込生は邦人歌手には鬼門とも言える仏語喜劇の中でも暴論ながら有名作では「オリー」以来の舞い上がるような洒脱色の濃厚な艶笑譚に各々に所を得て各人の長所を発揮の修了公演には相応しい敢闘の大詰として偏愛の幕切れの重唱を拝聴。伴奏は独仏の2分野で本邦の第一人者とも言える2人の指揮者が薫陶のオケは格上の前者が登壇の一方で後者は客席からの督励のようにも映じて独語物でのテヌート感が印象的な健康的な耽美、仏語物での予想外の柔軟感に生真面目な瀟洒を感受の印象。中一日を空けた再登板の成果を祈念しつつ前任の学者所長から昨年に交代の歌手所長のレア演目を選択方針との選曲力量に関心を寄せながら劇場を後にしました。
  「洋々の明日を伝ふる木の芽時」 昭成
アフターシアターは、再度に及ぶ妄想劇での時間浪費のためにやむなく「喫茶館 英国屋」で。

新国立劇場「ボエーム」 ~ 軽さの歌声と厚さの伴奏 [新国立劇場]

boheme.jpg1月27日・新国立劇場・4階正面D席
前日の当代を代表の歌姫の独唱会に続いて世事に因る週末マチネへの当初予定を2日繰り上げて5回公演の4回目の平日ソワレへ参戦。政権与党の意向とも邪推の当代監督の治世より前季の「椿姫」の画家役、来季の「トスカ」の総監役と並んで代役ながら当夜は詩人役と何れもオペラ入門企画の演目での男声主役陣の一角に「日韓友好枠」とも言える隣国人の起用が続く配役は失策とも愚考の陣容に依って主役ペアでの男声は高音と装飾の力量は不明かつ好みの問題とはいえ屋根を突き抜けてパリ上空に舞い上がるような明るさは欠乏の隔靴掻痒感ながらベルカント物への親和性、女声は古楽物にも軸足の個性に因って第1幕の独唱合戦は期せずして一目惚れ場面のオペラ史上で本作の先駆かつ双璧の名場面と勝手に解釈の「チェネ」を初めて連想の前々世紀前半以前の作品での本領発揮と想起の個性を感受と同時に詩人役の先攻独唱曲は1曲としての単体感も欠如の軽量感に続いて第3幕での主役ペアの二重唱以降では本作の音楽的白眉とも位置付けの珠玉場面を精力減退によって台無しの一方でお針子役は最終幕では病身の設定が奏功とも思える実に丁寧な弱音での歌唱に実力を拝察ながら漸くに当夜でほぼ唯一の傾聴場面への到達には悲劇の再現までには及ばずに幕切れ。脇役男声陣では最終幕の高声歌手も含めた未練二重唱での喪失感を微塵も感じさせない哀愁感の欠如、続く四重唱での客席の中高年紳士を自身の青春時代への回想に誘導の精気に溢れた活力の欠如に演目名にも込められた本作の魅力の一面は皆無のままの帰着と共に堅牢な堀割にも似たヴェリズモ期の分厚い音楽で満々のピットを突破可能な歌手の不在に本人自身よりは起用側の価値観の所在とも妄想を飛躍しつつも邦人歌手では国家評議員役の昨年の非常事態下での「ばら」と同様に画家役との食卓間での眼力対決の黙演でのビスケットからソーセージに変わった咀嚼演技での存在感は毎度の出色。伴奏は年度末恒例の第二専属オケでのイタオペとはやや異質の低い重心感と角張った武骨感も演目の日程編成での優先順位の視点を痛感しつつ当代監督が重用と言う独人指揮者は低速ながら耽美には未到かつしなやかさに欠如の自然な呼吸感からは程遠い居心地の悪い人工美的な音楽づくりと愚考の来季での登場は母国物との予定にやや安堵。側聞の制作経費難に加えて昨年の国策企業の危機管理喪失の失態に因る招聘芸術家の制約は承知ながらも年末の喜歌劇に続いて年初のイタオペでの当代での国営歌劇場の通常公演の力量を実感しつつ心身ともに凍えながら劇場を後にしました。
  「ビル街の風に若菜も首すぼむ」 昭成
アフターシアターは、寒風対策に「香名屋 総本家花園店」で。
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