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横浜みなとみらいホール「蝶々夫人」 ~ 異人が余分な赤い靴の街公演 [国内公演団体]

numabutterfly.jpg6月30日・横浜みなとみらいホール・3階正面後方B席
過去2カ年の合わせ技での一夜分の短尺物を敢えて分割上演のヴェリズモ物からの発展とも思えるついに3年目にして列島西端の軍港街を舞台の傑作を選曲の前年に続いて専ら本劇場と隣区に立地の県立劇場での自身が芸術監督の関西湖畔劇場との県立提携方式の年度末のオペラ企画を継続の指揮者を目当てに週末の暇つぶしを兼ねて湾岸劇場へ多摩川渡河の参戦。入場口では御当地名物の輪ゴム括りのチラシ束によって県都訪問を実感しつつ暫時の待機の後は開幕前に舞台寄りの上手2階席で主催側から能弁な作曲家館長の挨拶が突然に「本日は館長よりも蝶々」との名刺代わりの駄洒落で開始されて「器楽会場で敢えて演奏会形式を超えたオペラ」との意気込みを披露ながらも残念にも前口上のさなかに早くも主として照明を利用の演出への「眩しい」との階下からの直訴野次を惹起の客席向けて照射のオケ後方に設営の特設舞台縁に真一文字の約60基の照明、舞台背面のパイプオルガンを隠蔽のように垂下の複数の白幕に投影のお手軽感が横溢の設定地の風景画と思しき浮世絵やおそらく障子を象徴の色紙形を組み合わせた勿論に蝶を含む花鳥の日本画の他に無粋な単一または複数での原色的な色彩や遺児に代替の風車と外題役の自害場面での蝶などの切り絵、果ては第1幕の大詰では天井桟敷客を直撃の星空を直截的に表現のまさかのミラーボールなどと最終場の冒頭での最上階からの奏者には御苦労様な鳥笛吹奏での外連味の音響効果も軌を一の前年興行と同様に中途半端な投影手法がオペラ屈指の傑作堪能への減殺効果を発揮の当日は封印の黙役子役の起用への支弁がオペラ初心者の地元中高年の琴線には格段の高作用とも確信。着席まで独唱陣には無関心なままに無料パンフによって演技力に着目の故か稽古場の活性化への期待の故かは不明ながら「結婚仲介人」役の耳慣れないバリトン起用は脇に置いても前半幕の主役とも言える氏名と経歴から伊系豪州人と拝察の中尉役は唯一の白人ながら遠目には白髪も目立つ中年と思しき容姿での登場時は関西人の周旋人役に後塵の声量にやや驚愕的に見える体躯で増幅の発声力が期待値よりも大いに貧弱の現実を時折の高音での張り上げぶりが一層に痛々しく強調での当初は雛壇には男声1列と女声2列での有期契約とは言え本作には歴戦の国立歌劇場から招聘の合唱団に加えて女流コンマス組だけが台座の女子が8割強と思しきコントラバス4本編成での上手奥には1ダース程の磬子も配置の自身の後輩オケを起用の低予算での盤石な陣構えでの指揮者の丁寧な音楽づくりにも呼応不能の状態に加えて同胞役に追随のような領事役の経歴不相応に稀薄な存在感と指揮者の幕切れのイタオペでのワーグナーばりの相聞二重唱としては共に夜間との設定の「オテロ」の同趣曲と双璧の名場面とも愚考のシンバル音に象徴の頂点に向けて潮汐を連想の情緒連綿の陶酔の境地への高揚感には残念ながら未到の散漫感も加勢のオペラ史上で屈指の耽美の領域と言える作曲家の名声を決定の三部作の最終作として見方によってはイタオペの最高峰に相応しい濃密な音楽美が堪能不能な艱難の状態に閉口ながらも尉官離日から3年後との設定での後半幕では前幕では脇役に後退の在伊と思しき邦人外題役がついに主役らしい存在に転化の俄然に公演の魅力が増大の声量と間合いとの外形と情感と歌い回しとの内実が共に緊張感を保持の歌唱表現で伴奏も聴く者の心の襞に添うように呼応の経歴紹介での「世界中で100公演以上」の「屈指の日本人バタフライ」との表記に首肯の凱旋公演に相応しい印象にオペラ公演での単日上演の残酷性と共演陣との蓋然性を再認識。余談ながら平然と遅参客への配慮を低廉は承知しつつも定刻入場の聴衆の静粛鑑賞よりも優先の3階席への誘導措置、平然と遅刻客への注意事項伝達を上演中の場内に誘導後に至って説明の接客方針、平然と場内での休憩表示を発見し難い故の残余時間の確認質問に誤情報を回答の係員嬢、平然と天井桟敷客に散見の座席での前例姿勢や客席で野球帽を装着の軽装の熟年紳士、平然と外題役の登場時や主役ペアの二重唱時や領事の手紙朗読時などの名旋律を切断の飴袋を開封の雑音、まさかのハミング合唱時での携帯電話の着信音など主催側の営業姿勢を含めて川向こうの土地柄を再認識の午後としても感無量。4カ月余後のプッチーニの前作での指揮者の新国立劇場への再登壇を期待しつつも時間の浪費感と電車賃の散財感も僅かに抱きながら「みなと」とはいえ劇場からは海の見えない港街の劇場を後にしました。
  「港入る鑑影かがやく梅雨晴間」 昭成
アフターシアターは、都心への直通線を途中下車の「かつ久 無庵 横浜高島屋店」で。

二期会「コジ・ファン・トゥッテ」[抜粋] ~ 国内一線級らの余芸 [国内公演団体]

nikikaicosi.jpg6月23日・サントリーホール・小ホール正面後方指定席
「ゼッダ4連戦」の3日目はおそらく翌日公演の稽古日と思しき休演日での"転"的な位置付けとして4日前のワーグナー企画との2回券を利用の「二期会WEEK」の"第六夜"での企画者名を冠した「林美智子の90分の『コジ』!」と命名の昨秋より無料パンフに拠れば「今や全国展開中!」との看板を引っ提げて本週間には6年ぶりの再登場と言う都度編成の一座による贔屓曲の重唱曲のみを抜粋との好企画の初聴きに前日に続く5日間で3度目の会場へ参戦。選曲事情は不明ながら全く同趣向での翌月の国営歌劇場の研修生公演への模範演奏とも言える士官組と姉妹組ともに主催の同業者団体のみならず国内を代表の当代の看板歌手が居並んだ陣容の故におそらくは単独チラシも不要の売れ行きと推測の会場には目一杯の18列に中高年婦人を中心にカーテンコールでのパンフに掲載の女座長が直筆と言う登場人物相関図に出演者の署名入りとの一点物が景品の抽選券代わりの半券抽選箱に貼付の「完売御礼」との営業成績に平土間の末席から6年前の同じ会場での初披露には早々に完売との座席争奪線に遅参のほろ苦い記憶も想起しながら御同慶の至り。短縮措置の序曲と本務校の大学オペラで同配役を既聴の哲学者役による前口上に続く仕込み編とも言える第10曲までの8曲は女座長の脚色と言う繋ぎの邦語台詞の簡素化によって伊語歌唱からの突然の言語転換ながらも違和感は最小限での抑制効果も生じつつ省略が通例の第7曲の披露を経て短尺ながらもそれ故に見方によっては本作でも随一の奇跡的な楽曲とも理解の別離の五重唱と祈願の三重唱は共に期待の天国的な幻想感には不足ながら総じて小気味良く進行の後に士官組の変身時間を確保の故か哲学者と女中との会話はやや冗長に進んで重唱版では声楽陣総出の第13曲での本編の賑やかな幕開けから舞台経験の豊富な「オペラ歌手」とも呼ぶべき独唱陣の小劇場を意識した無理の無い発声による歌唱と共に自発性に根ざした初公演以来の複数回に及ぶと拝察の手慣れ感が伝播の演技の中で高声男声が哲学者の任務を代替かつ三部作の他作では主従関係を同僚に置換の一心同体の士官組が滑稽役を担う注目の変装は上着脱衣と遮光眼鏡装着の当夜の趣旨に合致の簡素の故に視覚的には本人扮装は明瞭ながらも母語国の見立て文化を見事に発露の印象では人間心理の一面を露出とも思える程の別人の風情を醸成の表情と所作に刮目しつつ2曲を跳いだ男声三重唱は事態を楽観視の青年組の歌手自身が余興感すら放出の愉悦感に満ちた表情での歌唱に喜劇感が充満な短尺での畳み掛ける痛快感は当夜で屈指の妙味とも拝聴の後には後年にロッシーニが継受の作曲家自身の後期交響曲では半曲分程の長大な前半幕の終曲に至って事態の変転とそれに由来の本作では2人一組の3組での誘惑と困惑と煽動の渾然一体から一転のストレッタへと展開の劇中の若者5人が状況に没入の心理状態と気が付けば聴衆も同様にオペラ史上屈指の言葉と音楽との名人ペアが仕掛けた舞台の成り行きにひたすらに注目かつ傾聴の境地に誘引の高揚感を抱きながら一同混乱のうちに幕。20分間の休憩を経た後半幕では早くも4曲目には本作の佳境とも言える高声ペア重唱が登場して恋人たちの個性全開の独唱連発の割愛に因るデジタル時代らしい顛末の一足飛び感を醸成ながらも当夜は直前の低声ペア重唱との対比感と共に姉陥落の二重唱に山場を集中の効能も発生との本版の副産物も頂戴しつつ終曲は合唱不在を補修の進行のついには当世風の喜劇仕立ての悲劇または新たな喜劇の開始での着地に至らずに元来型の結末の直球勝負で閉幕。特筆は「陰の実力者」との配役名の下で哲学者からの「クリスティーネ」との呼び掛けに仏語で頭声返答の伴奏者による音楽は風采どおりに男手の力強さでの一音一音の明瞭感に当夜は哲学者の侍女と思しき繊細さが合体の運指技術の上に緩急感を駆使の自在な歌心とオケ音色を連想の巧緻な技巧に因って「独りオケ」とも呼ぶべき伴奏音楽だけでも十二分に堪能の例えば本編展開の転換点と言える第18曲の砒素中毒を演技の変装連への姉妹の同情場面での緊迫感を底流としつつ滑稽と悲哀が同居との本作の本質を衝いた情緒感など登場人物の内面を表出の"神童"の筆致を掘り下げたこれまで未経験の作品を熟知の識見に基づく表現意図の着想を実音化の技量にやや大袈裟ながらピアノ伴奏観を一変の感慨。古今東西での先例は不明ながら今様な演奏時間を含めて贔屓作の簡要再現での新たな味わいの堪能に発案者の慧眼に感心しつつ満腹感に浸る御婦人連の行列に続いて劇場を後にしました。
  「火遊びの準備万端サングラス」 昭成
アフターシアターは、手近に会場に隣接のホテル内の「花梨」で。

アトリエ・デュ・シャン「タイース」[抜粋]&「連隊の娘」[抜粋] ~ 喜劇は悲劇より難し [国内公演団体]

regiment.jpg5月27日・ゆめりあホール・正面後方自由席
昨年は春期と秋期の共に日程重複のために見送った仏語物専門研究会の春期最終回へ後半演目に惹かれて参戦。日曜ソワレながら50人以上が参集の前で若手の研鑽成果が披露の前半は主役ペアのみの「タイース」を前座的に20分、後半は望外の老若に世代分離の8人の兵卒も登場の劇場で会った知人曰く「これなら全曲でもよい」との合唱付きでの「連隊」に75分との配分に依って4世紀のアレクサンドリアの娼婦譚から4曲を拝聴の後に10分間の休憩後はいよいよ18世紀のチロルの孤児譚に突入して号砲代わりの恒例の主要配役の代表的旋律を背景音楽に利用の仕掛時計の人形を連想させる能弁な主催者兼説明者兼指揮者からの紹介が先導の舞台横断での洒落た人物紹介に続く侯爵夫人役の露払い的独唱を経て軍曹との二重唱の外題役は仏語台詞も交えて前半は手探り的な緊張感の匍匐前進的ながら後半部の小太鼓の擬音部分から愉快感が全開の事実上の開戦に安堵の男声合唱を従えた登場歌も達者なアジリタを駆使しながら持ち歌然として難関を相応に突破の一方で主役ペアの愛の二重唱では旋律部はベルカントの波状音楽を再現の弧状感と後半部の弾力感、さらに青年役の見せ場では世評に名高い難所の故に得意の高音を響かせた標的痛打の成功には同慶ながら前半の叙情感と後半の快活感での対比に欠けた苦戦には今後の研鑽の蓄積による本格攻略を大いに期待しつつその延長線上での前半幕の大詰の別離場面では悲劇的な雰囲気の醸成も稀薄なまま後半幕に突進ながら導入曲を衣装替えに利用しつつ夫人役が自身で電子ピアノを演奏の練習場面はつつが無く通過の後には主役の懐旧場面での前半の悲哀感と後半の絶望から脱出の歓喜、再会の三重唱でのフランス的な小唄表現の軽妙さの欠如、青年役の第二難所は省略の迂回作戦によって当夜は残念ながら本作のブッファとは異質なパリ仕立ての洒落た雰囲気の醸成は不発と感受しつつも不思議と隊列の援護射撃と伴奏の後方支援に奮起の独唱陣の敢闘心と一体感が幕切れでの一定の充足感へ到達。軍曹役は鈍角的な声質ながら豊富な舞台経験の演技によって介添え的な役回りで代父と上官の任務を完遂、伴奏は時代物の悲劇での豪快な前半作とも好対照の仏語喜劇への軽快な音色と自然な速度感で好感。筋書と音楽での悲嘆と歓喜の反芻かつ複層構成で結末の"デウス・エクス・マルキーズ"に至る本作の魅力の創出には未到の消化不良感は抱きながらも一夜限りの制約に果敢に出撃の門下生の反復教練による楽曲との格闘を踏まえた本来の目的は研究発表ながらもその領域からの浮上を大いに期待しつつ劇場を後にしました。
アフターシアターは、手近に最寄駅前の「ノヴェル」で。

二期会「スペインの時」&「子供と魔法」 ~ オペラ研修所の60周年記念公演 [国内公演団体]

ravel.jpg5月19日・新国立劇場・中劇場2階下手指定席
大型連休から連続の週末の暇つぶしとして主催の同業者団体の60周年記念事業と兼ねた3年毎と言う若手公演に逡巡の末に廉価券の入手機会の到来で決意のラベル二本立ての初日組へ参戦。合唱陣は出演免除ながら各日で21人との大所帯の独唱陣とその近親の血縁・地縁や交友関係も当て込んだ集客は遠望の限りでは概ね奏功と拝察しつつアール・ヌーヴォー末期の前半作は主催団体の重鎮から就任の国立歌劇場研修所長の意向を反映の所産かは不明ながら2カ月前の同じ劇場での音大では同輩または後輩筋に当たる同研修生の年度末公演との競演もレア物だけに印象深くも当日との作り込みの成果の軍配は学生と職業人との準備の周到度の相違もあってか前者に傾斜しつつ伴奏を含めて贔屓の大詰の五重唱に象徴的な打ち寄せる波のように独唱と重唱が巧みに交差しつつ徐々に高揚感を形成の頂点は残念ながら平坦なままにティンパニの空疎な響きで閉幕。アール・デコ盛期の後半作は7年前の「藝大オペラ」での脇役陣は院生主体の公演との比較でもやはり当時の初実聴もあってか先年の公演での初々しさの反面で丁寧な歌い込みに好感の記憶が蘇生しつつ聴覚よりも視覚への刺激に勝って総じては2作ともに声楽では首都圏での直近と推測の同世代の公演には及ばいままに後半作の大詰場面では宗教音楽的な終結感も醸成ながら総じては仏語歌唱の難題も含めて若手らしい発展途上の領域とも拝察。単日興行の制約も感じつつ本企画の過去公演との比較でも後塵と位置付けの完成度に次回の選曲と演奏に期待しながら劇場を後にしました。
  「子雀の集ひて互ひの夢かたる」 昭成
アフターシアターは、喫茶休憩となって「珈琲舎 バン 伊勢丹会館店」で。

Felicia「湖の女」[コンサート形式] ~ 臨海の小劇場からハイランドの大自然へ [国内公演団体]

lago.jpg4月29日・葛西区民館ホール・正面後方自由席
週末の暇づふしを兼ねた「大型連休前半三連戦」の掉尾に相応しくも世界的に上演の稀な傑作セリアに果敢に挑戦の奇特な若手らの声援に荒川を渡河の長駆の参戦。初訪の最寄駅前の商店街を抜けた閑静な住宅地に溶け込むような外観の区営の地区拠点施設からは誰もが想像不可能なピアノ伴奏ながら本邦初演と言う難役への追加曲のナポリ版での全曲演奏との熨斗付きとも思える趣向に国内組には2年半前の作曲家愛好団体の定演での合唱抜き抜粋上演以来の実聴機会への"ラーゴ・クインテット"の出来映えには一抹の懸念ながらもA4判6頁4色刷の無料パンフでの原作者や登場国王の肖像画は勿論に場面設定で実在の城郭や湖水の写真の掲載に主催集団の作品への愛情と当日への気勢を十二分に感受の故に開演前からの前掲姿勢は一層の傾斜を自覚しつつも客席を見渡せば30人半ばの合唱団の声掛けも空しく100人程度の客入りに部外者ながら隅田川以西の会場ならば極上曲が見事に連なる天下の名作への認知の機会拡大とも愚考の残念至極。演奏会形式との触れ込みながら舞台奥にはほぼ間口幅での4層の雛壇を設置の譜面換えは裏方組の任務の独唱陣に加えて展開によって立ち位置を変化の合唱団の出入りと共に照明の多少の工夫に依って自助努力での字幕投影の効果も万全に初見者でも筋書理解は十全と拝察の成果は高声と装飾に刮目の国王役を中軸に外題役は幕開けから終曲アリアまで可憐な歌声で主役に期待の技巧を披露の健闘、その父親役は感情表出に優れた低声域での孤軍奮闘、恋人役はおさらい会の域ながら幅広い発声域を発揮の面では敢闘の若手らに対して助っ人出演の恋敵役は新酒の味に混入の異質ながら熟成の味わいもあって前半幕では高音は準備万端ながらも強いアクセント、スラー化のアジリタ、周囲からは浮き上がり気味な舞台慣れの所作に難役への力み過ぎとも拝察から一転の後半幕では本作でも傑出の終曲とも錯覚の紆余曲折を経ながら血沸き肉踊る高揚感に導引の大三重唱とも言うべき規模と変化と技巧の要求に登場時から安堵の立て直しの結果としてロッシーニが常套の終結楽句の直後には「揺れが収まるまで暫時待機」との場内放送を引き出す程の大地も震度2で賞讃の当日の白眉の場面を形成。概して青年組と熟年組に二極化の臨時編成と思しき合唱陣は作品誕生国の地域劇場に優る相応の歌唱の習練と経験を推察の以心伝心国の面目躍如とも思える安定の出来映え、作曲家の国内愛好団体の一員と言う伴奏者は長丁場での集中力の維持にも効能とも思える番号部と非番号部での打音の芯の有無を感受の調整の上でオケでの音色変化への忖度に因って原曲の多彩で巧緻な音楽美を再認識、本業は作曲家との指揮者は歌手への的確な合図に基づく声楽作品を理解の呼吸感、楽曲終結のリタルダンドの自然感に代表のイタオペの要所を心得た積み重ねで大詰では相応に高揚の終結感に到達の感慨。概して小劇場でのみ通用と思える上演ながらやや大袈裟に言えば独立団体での見方によっては物好きとも言える若手らの結集で実現の国内オペラ上演史に刻印すべき傑作異版の堂々の本邦初演を大胆にも達成の栄誉に関係者全員への慰労と謝念を抱きつつ当夜の格闘の3時間を振り返りながら劇場を後にしました。
  「春風や湖面にちりばむダイヤ粒」 昭成
アフターシアターは、地元の人気店らしい「独一処餃子 葛西店」で。

東京・春・音楽祭実行委員会「タンホイザー」[演奏会形式・映像付] ~ ヴォルフラムの理性による救済 [国内公演団体]

tannhauser.jpg4月5日・東京文化会館・5階下手E席
今楽季下半期のワグネリアンには随喜と拝察の4カ月間での「ロマン的歌劇三作」の一挙上演、半月間での「タンホイザー」の連続競演、後半2作での外題役に当代を代表の歌手を招聘の注目舞台との三重の意味で実に御同慶の何れの点にも合致の中間作の「映像付」との注記の3文字の趣向を案じつつも通常より1時間半も早い開演時刻を標的に万障を繰り合わせて万全の態勢で平日ソワレの初日へ参戦。前年の本企画の地異事由での痛恨の中止措置を含めて戦時下を想像の燈火管制の世情で一念発起の震災後の初参戦として本音楽祭のマラソン企画を急遽に選択の記憶も鮮明に甦生の中で369日前の同一会場とは隔世の感慨で花見御一党を右手に見送った後にもぎり嬢の「どうぞ、お楽しみくださいませ」とのこれまで寡聞の営業辞令とA5判11折に上る大部の無料総合パンフに迎えられて巡礼のような最上階までの苦難の徒歩行の果てに無事に天井桟敷に辿り着けば板上にはピットをそのままに登壇のような配置ながらコントラバス8本との演奏会形式らしい大編成のオケ席が敷き詰められて彼らこそが往事の「イタリア歌劇団」とは異なって当夜の本当の主役とも思える事実を実感しつつ独唱陣と指揮者の他にコンマスにも外国人を配置の2週間ぶりの序曲は全体の中心点とも言える二重の三部形式の中間部での独奏は独人らしく演奏版にも相応の妖艶感よりも豊穣感に勝った健康美が放出の当夜の基調を象徴の表現とも拝聴の後には偶然にも当夜と前後して興行中の国営歌劇場の再演演目での3年前の新制作時には外題役として熱演の巨漢の主役は幕開けからの離別歌での節を追うごとに確信的な歌唱への変容以外にはピットを含めて洞窟界での男女の別れ話の散漫とも思える展開に先行きへの危惧を雲散の作劇巧者らしい作曲家の目論見に合致とも思える舞台最後方の邦人巡礼団の場内空気の純化とオケ下手後方に布陣の1ダースのホルン隊の派手な立吹による場面一新の効果を挟んで開始のイタオペ派には天恵の脇役総出演的な騎士連一行の到着からの自然界での男達の友情話の顛末に突然の邂逅でも昔年の厚情が伝播の懐旧的な名旋律も含んだ微笑ましい重唱と説得歌での一種の休憩効用の結果なのか主役単身で6人の領主一行に拮抗の重戦車を連想の重唱からの突破力に振り返れば当夜で記憶の一場の男声七重唱で漸くに後続幕への期待感を醸成との安堵の拝聴。初日らしくもトランペットの舞台裏での賑やかな試し吹きを拝聴しつつ30分間の休憩待機を経た前幕後半からの好演感が継続の弾力感と推進力に優れた前奏で幕開けの領主姪役が主役とも言える中間幕は鳥の目からの構築性よりは虫の目的な感興への即応性に優れた一瞬の惰性感も無い音楽の変転が永久運動のように進行の伴奏の下で今度は1ダースのトランペット隊が予告の歌合戦での邦人が担当の中堅役と共に先鋒役の腰掛待機中での筋書の展開に呼応の黙演に演奏会形式を超越の舞台公演の雰囲気を醸成の積極姿勢に好感の前面での道場破り的な外題役に対抗の騎士連は文字通りに三者三様の役柄の性格を自身の役作りで差別化に成功の域と思える本作の原題の後段を担う任務を完遂ながら糾弾場面では肝腎の主役ペアがまさかの男声の燃料切れ、女声の説得力よりは敢えて選択とも推測の呟きのような表現手法に因ってコンチェルタートの頂点感には未踏の充実の一幕での画竜点睛を欠くような結末にやや欲求不満の残念感。再度の30分休憩では偶然の満開時期に遭遇の機会に思い切って初の上野の夜桜見物に繰り出せば白色の常設の街灯と赤色の臨時のぼんぼりが混交の照明効果の故か歩行鑑賞の"横から目線"よりも枝振りに潜り込んだ"下から目線"が漆黒の夜空を背景に薄桃色の花々から放出の妖艶性の初体験に先人の感嘆を追体験の暫時は中欧の吟遊騎士の世界から江戸の庶民の喧噪に瞬間移動の感慨に浸りつつテレビのオペラ中継番組の幕間小休止での風景映像の世界のようにも受け止めて足早に帰参の後は最上階通路の窓から正面の小部屋の打ち上げ用と思しき2ダースのシャンパン瓶も視界に収めて最終幕の拝見に気分一新。本作の疑似三角関係の3人中では役得も加勢の当夜の出色とも言える低声歌手は眼鏡姿に象徴の終始に理知的な歌唱を披露の主従の登場場面での歌謡性に優れた独唱曲は低速で音信不通だった旧友に噛んで含むような説得を充分に意識の丁寧な歌い回しでの表現に因って後続の重唱部を含めてイタオペ的な音楽美の創出の立役者として以降も機能の後には最後の見せ場でも同様な傾向に立脚の下世話ながら映画「ルートヴィヒ」の人工洞窟の場面を想起の孤独かつ夢想の国王との二重写しが脳裏に浮んで客席に息を呑ませる端正な詩情感を場内に充満化の佳唱によって"ローマ語り"では力みは抜いているものの指揮者の指示なのか田舎くさい程の芝居っ気に却ってイタオペ派には長尺の一人語りを飽きずに拝聴の時に不器用な力任せの激情的な歌唱で対峙の主役とは好一対の対照、彼らの相手役は登場の独唱は不発に終わるものの後続の二重唱からは控え目な歌唱に依りつつ主役級の位置付けよりは重唱の一翼を担う貢献とも拝聴、さらに領主役は自身の主要幕での3回の聴かせ所では姪との面会場面での庇護者の慈愛、歌合戦の開会挨拶での為政者の貫禄、大詰での審判者の威厳との公私三態の歌い分けにオペラ歌手としての力量を実感。懸念の「映像付」は概して場ごとに変化の絵画の投影によって遠目には洞窟内の流水以外は「画像付」が正確とは思いながらも背景幕の代用と捉えれば視覚上の説明としては効用充分と理解の一方で字幕は3年前の「ポッペア」の先例を想起の横書きながら映像の上に効果的とも思えない字体・大きさ・配置・斜度での演出的な映写の故に本作の人間と宗教の本質を問い掛けの奇蹟譚の性格との違和感と共に専ら聴覚のみでの作品理解には無用な視覚的雑音とも拝見。やや存在感の薄い代役豊穣神役が舞台に残留の中で等閑にも見えた指導者が御膳立ての大詰の合唱は音色上での透明感と表現上での敬虔感に溢れてローマ帰りの贖罪集団の内面と共に一巻の読み切り感を濃厚に放出の作曲家の巧みな作劇術を当夜の形式風に再現して遠くは無料配役表で賑々しく宣伝の向こう5年間の「ドイツ楽劇団」への遠望と同時に近くは急遽に楽日への再訪を検討課題としつつ劇場を後にしました。
  「春宵に森羅万象息ひそむ」 昭成
アフターシアターは、上野でのソワレ救済店の「厳選洋食 さくらい」で。

神奈川県民ホール「タンホイザー」 ~ 軽巡洋艦級の草食系ワーグナー [国内公演団体]

tannhauser-k.jpg3月24日・神奈川県民ホール・3階正面後方D席
年度末恒例の共に東西の両都に隣接の港湾と湖水との相違ながら水辺に立地の県営劇場が提携のオペラ興行に幸いにも本年は演目と演出に敬遠感も無く小雨の寒空の下で8年前に開業の会場まで徒歩圏内の最寄駅に乗り入れの私鉄を利用の遠征の首都圏初日へ参戦。当日は一昨年の地震、昨年の台風に続いて各駅停車への乗換駅ホームでの開演時刻40分前に発生と言うJR線での最寄駅路線の不通事故との電光表示に横浜行軍との私的相性と危機管理の必要性を実感しつつ当地名物の輪ゴム括りのチラシ類を受け取って入場すると早々に完売の最安席の空席も開演時刻にはほぼ皆無となって無事に多摩川渡河の諸兄姉に同慶しつつ吉例の俄かワグネリアンに転じて耳タコの名序曲の巡礼旋律が会場を満たせば本企画では4年前の「ばら」以来と記憶の独語物を前に作曲家初の脱番号オペラの位置付けとオケの特性、さらに当然に指揮者の個性も加味の結果なのか息の長い旋律を強調の歌謡性と歌心を表出の"間"の設定を基盤に繊細かつやや快速な「ルチア」から10年後との本作の初演年も想起の軽やかな響きの一方で主部と中間部の存外に希薄な対比感に先行きへの危惧も杞憂の後半部ではささやかな高揚感を伝播ながら各幕の大詰では畳み掛け感の不足の他に洞窟での離別歌、城内での再戦含みの歌合戦、その後の領主姪役の制止行為での作曲家が企図と推測の聖数を象徴の3回の同様行動で徐々に構築の高揚感の稀薄な淡泊とも言える展開の反面で総じてイタオペ派には後年の「マノン・レスコー」を連想の前幕までの雰囲気を一変の悲劇への御膳立てを形成のオケ版の「ローマ語り」とも言える"第3幕への前奏曲"での詩情感と起伏感の豊かな描写性など総譜の全体像を鳥瞰のような透明感とピット指揮者らしい呼吸感に優れた個性を表出の音楽づくりに好感。外題役は2週間前とはいえ既に初役と聞く関西での予行的公演を経て難役に果敢に挑戦の成果は最終幕の長口上も力感が十二分に伝播の大役を雄渾に完遂、その相手役は3回とも思える自役の見せ場での初回の登場歌では切り替えの具合が影響なのか高音域でのヴィブラート制御が不調ながら一旦の退場を経て中回のコンチェルタートでは見事に筋書展開の中軸として本領を発揮の一身で音楽的かつ演劇的に舞台を牽引の豊富な経験に裏打ちの力量によって劇的緊張感を創出して当日の白眉との拝聴から一転の終回はピットの好援護も加勢の中音域が中心の祈祷歌によって歌唱後の余韻も含めて大劇場空間に静寂と憐憫の空気を見事に醸成、他方で領主役を筆頭に脇役騎士連には高声の若手を除いて5年前の新国立劇場公演と同様に国内最大手の歌手団体の幹部級とその同世代が居並んで販促には各々の立場で相応に貢献と思いつつも感情表出に稀薄かつ歌唱自体に弱体など緊張を弛緩の効能を発揮。営業活動で各地を転戦の合唱団は指揮者の芸風と軌を一の発声と歌い回しは繊細表現に優れて殊に巡礼団場面はオペラには不釣合な程に宗教曲のような木目細やかな歌声を披露。演出予算は不明ながら本劇場が立地の政令市と最初の姉妹都市締結と言う太平洋対岸の港湾都市の劇場からの借用演出は友好関係は理解ながらも見方によっては当世では稀少な写実で一貫の国立歌劇場での本公演と同じく演題も含めて初演版を謳い文句の先代芸術監督の御披露目興行と構図は全く同様な「大ロマン的歌劇」に相応しい牧童の人影の背景幕への投影にはブロッケン山の魔人も想起の牧歌的な美術の中で奇数幕での巡礼の足取りは近代工場から帰路の期間工を彷彿の一群の様相に所属劇場または本公演での所作指導の手抜かりと共に往路と帰路で歩調に全く変化の無い殊に最終幕は疲労感の欠如に加えて折角に携帯の木杖を不使用の移動の段取りにのみ留意の壮健な集団行動を見せられても奇蹟譚の大詰に向けた感慨湧出への環境整備は未達状況と拝見。視覚面では舞台転換などの構想は首肯できるもののその再現に肝要な写実描写でのドサ回り感との落差に劇場との適合性を実感の一方で専ら聴覚面では指揮者も含めて唯一に排外陣容での上演成果にチューリンゲンの森林に密やかに開いた一輪の可憐な野花を見るような感慨に浸りつつ昭和の雰囲気が横溢の劇場を後にしました。
  「しとやかに春雨けぶる港街」 昭成
アフターシアターは、中核駅まで移動して百貨店内の「ル グラン」で。

藤原歌劇団「フィガロの結婚」 ~ ロココ風味が棚引く伴奏美 [国内公演団体]

figaro.jpg3月4日・東京文化会館・5階下手F席
半年前の「セビリャ」に続いて「フィガロ三部作」の前半2作をオペラ史に刻印のロッシーニの伝導師が今回は偶然の代役による結果的には連投との椿事的好機に世事の不調での前日の初日組への予定を断念して若手が中心の楽日組のみへ参戦。開演45分前からピット前での15分間の公演監督による先代監督が字幕と共に創始と聞く直前解説では作曲家の天才逸話、秘密結社との関係などの史実的説明に続いて本公演に関連の衣装はローマ歌劇場の所有、最終幕の背景写真はヴェネツィア貴族の邸宅を特殊素材に焼付の本邦最大寸、さらに最終幕は暗闇設定との拝見上での留意事項が付加の簡ながら疎でない情報提供に加えて最後は最重要な半月後の控え陣でのアンコール公演の宣伝で降壇。チェンバロの不具合による開演の20分遅延の珍事を経て総じて若手感が否めない独唱陣の中での随一は「どろかさ」「タンク」に続く3度目のズボン役を拝聴の小姓役と映じて客席の最奥部まで響き渡る豊かな声量、配役の年齢には適切とも思える淡泊気味ながら充分な歌心、レチタティーヴォでの伊語会話を連想の抑揚感の諸面からオペラ歌手に相応しい力量で場内のやや沈滞の雰囲気を払拭の第6曲で実質的な開幕感を醸成の証左として客席も最大の拍手で反応の故かピットも次曲の三重唱から音量増幅かつ表現濃厚の好転に続いてさらに次幕の第11曲では最長の拍手を惹起の出来映えによって乾土に慈雨のような当日の救世主とも思える今後の起用と活躍に期待の存在と感受。座長格の伯爵役は旨味よりは持ち役の従者役と共に手慣れ感に優れて師弟関係と思しき最終幕の担当アリアでの燃料切れとも拝察の歌唱に象徴の外題役への今後の薫陶にも期待、女中役は戯作上での実質的な主役らしい習練の成果を発揮と思しき溌剌の歌唱と動作の一方でその主人役は先行作での伯爵従者も舌を巻く勝ち気な気性または本作後に赴任の駐英大使夫人らしい気品の何れにも帰着しない歌唱との観点で今後の舞台経験に期待の他に脇役陣では判事役をレッジェーロらしい美声で一服の清涼剤として拝聴。目当ての伴奏は昨秋の古楽器での「コジ」と同様に通奏低音を付加の趣向にも傾聴しつつ傘寿を超えてなお連日での各90分間の2部仕立てを立ち通しの体力にも増してコントラバス3本の小編成ながら一瞬も停止感どころか着地感すら抱かせないしなやかで伸びやかで軽やかな当代では稀有にも思えるロココ的な楽調でのトレモロ音符の明瞭度、低弦のさりげない隆盛感など音楽の生命感が伝播の軽快感と透明感に溢れて殊に第14曲での優雅な音質感と切迫の音型感が併存の状況描写を先導にオペラ史で屈指の名場面と周知の愛好の大終曲では領主派と従僕派との3回戦半の対決局面の殊に主役の登場からさらに原告側三人組の出現へと聴く者を否応なく楽興の桃源へと誘引の語り口は絶品ながら残念にも最終幕では慣例とはいえ主催団体には期待の女中頭と音楽教師のアリアは割愛。有料パンフに掲載の40余年前と言う主催団体による本演目の前回公演のカーテンコールと表示の舞台写真での男性合唱の扮装から隊長風体が三歩手前に陣取る官憲風の装束、指揮者近くに夫人役の不在、黒衣長身から音楽教師役と思しき歌手の蝙蝠傘の携帯、舞台中央に設置の衛生用にも見える手水盥などの諸点から「セビリャ」を連想の風景からも半年前の同作との連動企画とも拝察ながら興行事情からか連投可能2役では僅かに一例のみ実現の初日組の医師役は脇に置いても天恵の伴奏に因って作曲年代は前後とはいえ神童の伊語物の衣鉢を継承とも愚考の天才の傑作との連編感を初めて実感と同時に偶然にも昨秋からの4カ月足らずで「ダ・ポンテ三部作」の逆順での拝見から俊才と異才と凡才の演出の魅力を度外視の上でもやはり最終作の別格的魅力の再確認と共に4カ月後の老匠のオケ演奏、15カ月先の俊英が伴奏の「コジ」を楽しみに劇場を後にしました。
  「たわやかに揺れる柳や風見ゆる」 昭成
アフターシアターは、隣駅まで徒歩の「井泉」で。

二期会「ナブッコ」(3回目) ~ 二期会合唱団の60周年記念公演 [国内公演団体]

nabucco3.jpg2月19日・東京文化会館・5階下手E席
一昨日からの何度聴いても血湧き肉踊る伴奏音楽が魅力の「ナブッコ三連戦」の酔狂な馴染み客としていよいよ楽日へ参戦(画像は会場で無料配布の「二期会通信」第288号に掲載の指揮者近影[撮影者不詳])。主催団体の「ニューウェーブ公演」の年長組的陣容での2回目は同配役の初日との比較の範疇で独唱陣は総じて各人の力量を発揮の1回目は一体如何との思いも浮上のやや大袈裟ながら別人とも錯覚の歌唱の披露に概して舞台経験が稀薄とはいえ専ら主役陣の出来映えに左右の全体的印象での格段の相違に今後の課題とも感得。外題役はアリアでは前日例とは正反対のカヴァティーナに優れて今世紀に入って散見の白色人種と互角に通用の声楽家として年齢相応の役柄での再聴の機会を今後に大いに期待、長女役は前回と同様に場内注視に誘引の最期独唱での哀感切々の感情表出に至るまでの音域の切り替えも円滑な登場の三重唱、見せ場のアリア、父娘喧嘩場面ともに安定の低音を武器に歌唱の密度は初日とは比較にならない実力相応と推測の難役への名誉挽回の健闘、次女役は王女としての品格と並んでロッシーニ作品で散出の国家と恋愛の狭間で後者を選択の確信愛を貫徹の乙女の心情を大詰の見せ場で清楚かつ決然と表現、その相手役は歌唱の安定感と旋律の波動感の向上、大祭司役は波動感には及ばずも凪状態から細波程度には生成の変化の殊に進行役的な役回りの最終場に至ってイタオペらしい役務達成の感慨。連戦の目的の伴奏は序曲の前半の歌唱旋律での器楽ながら長靴半島の歌心に満ちた歌謡性とピチカートの国内公演では稀有な立体感に溢れた一音一音の生命感から最終公演の展開への期待感も含んだ感興を湧出の渾身の音楽が場内を満たして長女役のアリアでは奮闘の邦人歌手を先導かつ下支えの男性合唱も包含の本曲の魅力を見事に再現の末に繰り言は承知しつつもカバレッタでの繰り返しの省略に返す返すも痛恨ながらオペラ史上屈指の豪壮な後奏では"巨人の乱舞"を想起の見事な音塊感に大地すらも震度2で共鳴の誘発現象には驚嘆、一転の後続場での祈祷歌では指揮棒を置いて展開から隔絶の作曲家の意図を十二分に実音化の一編の詩情的な静寂の一場を現出の力量に刮目、前半の大詰では独唱陣の舞台慣れも加わった輪唱はコンチェルタートの魅力が大脳を直撃の緊張感の保持のままに欲を言えば合唱にいま少しの粘り気を所望ながら声楽と器楽の一体感を壮大に構築の技量に感嘆、父娘喧嘩の場面では男女両声の現有の実力発揮もあって感情変化に対応の曲調の変転を意識の上で重唱曲としての連結感を形成のオペラ指揮者としての天分を感受、続く有名合唱と大詰の無伴奏祈祷歌では合唱団の奮起を背景に前者は異民族には間延び感の危険性を含有の劇中でのアンコールに楽日に相応しくオケと共に前2回にも増して"人馬一体"とも思える出色の抒情感に加えて後者はロッシーニの宗教作品とも錯覚の大詰感を放出の透明かつ凝集の歌声に合唱指揮者としての才覚も認知。閉幕時の音楽的高揚感の割にはカーテンコールは予想外に淡泊ながら例えば第3幕の冒頭の短曲合唱でも母国語の音節感を重視しつつ粒立ち感の短音と伸張感の長音や弱音の内向性と強音の外向性での明瞭な対比感、ロボット的な運動を想起のやや硬質な音楽の一瞬の"間"によるそれ故に生気感がなお伝播の躍動感、声楽と伴奏の渾然一体の劇的表現や高揚点を意識の巧みに積み上げを仕組んだ音楽づくりと硬軟の両面での予想外の充分な聴き応えに驚愕のイタオペの若大将色に脳内のみならず身体も染色の3日間を終えて今後の二回り、三回り、四回りの成長への関心の一方で国内組には再会機会の可能性への諦念を帯びた不安もよぎりながら贔屓作を堪能の充実感を抱いて劇場を後にしました。
アフターシアターは、一昨日に続いて定番の「厳選洋食 さくらい」で。

二期会「ナブッコ」(2回目) ~ 中日組でようやくの初日感 [国内公演団体]

nabucco2.jpg2月18日・東京文化会館・5階下手E席
前日の専ら伴奏音楽のみを堪能の平日ソワレに続いて「ナブッコ三連戦」の1回限りの中日組へ参戦。傾聴の伴奏はあくまで初日との比較の領域内では序曲の前半部での精緻化が象徴の一面では残念ながら聴き慣れもあってか疾風怒涛の魅力がやや後退の落ち着き感、一新の独唱陣によるコンチェルタートの一連の展開での出来映えの平準化が象徴の公演成立感にも影響の印象形成の全体的な統一感が醸成の興行の深化と受容しつつ既に主催団体興行の若手組では主役級での出演実績の注目の外題役は実年齢からは老け役の制約には承知ながらも父娘喧嘩の場面での二重唱を交えた3回、繰り返しを含めれば都合4回の朗唱部分での作曲家のお家芸として定評の実娘への父親の愛情表出を徐々に増幅の展開感とロッシーニが頂点との理解の台詞よりも音楽優位の明暗の一体的な対比感の両面で大成への道程として一層の歌心への踏み込みを期待の一方でその延長線上としてアリアでのカヴァティーナの平板感に対して一転のカバレッタでは力量を発揮の配下合唱を従えた年齢相応の愛剣を振り上げながらの颯爽の歌唱を堪能。長女役の初日組の同役とは相違のリリコ的な声質から初演時代の上演への根拠の無い彷彿の効能も加勢の次女役は密かに注目の故もあって姉妹観が逆転の存在感と拝聴の短曲ながら強固な信仰心が発露の安寧感に満ちた祈祷歌によって葬送行進曲に先導の展開から規模と効果は格段に相違ながら「どろかさ」の同種場面も連想の"救出"の大詰に繋がる悲劇場面を演出。大司祭役は登場時は緊張の故の力みに勝った歌声から次第に実力を発揮の伊語歌唱にも通じた経歴的に当日の芯的な存在感を放出の国内での利点は些少とは思いながらも今後の持ち役化を大いに期待。パルマ王立劇場が先行との提携演出は"勘覚"の鈍感を自覚のおそらくは「提携」と言う名の借物との拝察に結果的には帰着の寡聞にして初見と記憶かつ代行者の来日指導との推測ながら人物の機微よりは見方によってはやや虚仮威し的な舞台空間の三次元利用に効用の大仕掛けの装置に特徴とも愚考の決然とした伴奏とは実に対照的に強固な意図よりは経費節減の制約が伝播の終始に正邪の判然としない茫洋感が漂流して衣装では合唱での征服と捕囚の両民族間での無変化に対して独唱での前者の古代的と後者の近現代的との区分は明瞭でも改宗後の次女が父親とは相違の従前のままでは展開の一つの動力源の視覚化が欠落のようにも拝察の上に装置では同じ中東の少なくとも現代の乾燥地帯とはいえ内陸の大帝国の首都と地中海に近い聖地の区別が僅かに「嘆きの壁」と思しき移動装置のみでは字幕での補足説明の対策措置の他は極東の島国の神仏習合信徒には理解の埒外と拝見。若手が統率のピットでは序曲の演奏後や後半開幕の登壇時に早くも掛け声が飛び交う明瞭な伴奏音が聴き慣れた楽団から透明感を創出の大団円での緞帳が降下し始めても拍手を発生させない最終和音まで聴かせる音楽が続いて前夜との比較では入念が増大の"間"よりも弾力感に優れた瞬発力に満ちた好みの問題も加勢のやや波動性に弱くかつしなやかさに欠けたカヴァティーナ的部分よりもカバレッタ的箇所に余りある魅力の麦酒の味覚で言えば「スーパードライ」的な味わいの若さの発露との認識ながら年齢を顧慮すれは加速度的に進化の脳震盪すら心配の一音符一振りにも見える運動量の莫大な動作や時に両手を合わせた祈るような姿の一方でかつての米国人指揮者ばりの台上で跳躍など"見せて魅せる"面でもカリスマ性も垣間見える俊英指揮者の行く末にペラゴロ人生の新たな期待的関心を実感しつつ日没前の繁華街へ向けて劇場を後にしました。
アフターシアターは、劇場で会った知人らと銀座へ移動の「煉瓦亭」で。
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