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二期会「ナブッコ」(2回目) ~ 中日組でようやくの初日感 [国内公演団体]

nabucco2.jpg2月18日・東京文化会館・5階下手E席
前日の専ら伴奏音楽のみを堪能の平日ソワレに続いて「ナブッコ三連戦」の1回限りの中日組へ参戦。傾聴の伴奏はあくまで初日との比較の領域内では序曲の前半部での精緻化が象徴の一面では残念ながら聴き慣れもあってか疾風怒涛の魅力がやや後退の落ち着き感、一新の独唱陣によるコンチェルタートの一連の展開での出来映えの平準化が象徴の公演成立感にも影響の印象形成の全体的な統一感が醸成の興行の深化と受容しつつ既に主催団体興行の若手組では主役級での出演実績の注目の外題役は実年齢からは老け役の制約には承知ながらも父娘喧嘩の場面での二重唱を交えた3回、繰り返しを含めれば都合4回の朗唱部分での作曲家のお家芸として定評の実娘への父親の愛情表出を徐々に増幅の展開感とロッシーニが頂点との理解の台詞よりも音楽優位の明暗の一体的な対比感の両面で大成への道程として一層の歌心への踏み込みを期待の一方でその延長線上としてアリアでのカヴァティーナの平板感に対して一転のカバレッタでは力量を発揮の配下合唱を従えた年齢相応の愛剣を振り上げながらの颯爽の歌唱を堪能。長女役の初日組の同役とは相違のリリコ的な声質から初演時代の上演への根拠の無い彷彿の効能も加勢の次女役は密かに注目の故もあって姉妹観が逆転の存在感と拝聴の短曲ながら強固な信仰心が発露の安寧感に満ちた祈祷歌によって葬送行進曲に先導の展開から規模と効果は格段に相違ながら「どろかさ」の同種場面も連想の"救出"の大詰に繋がる悲劇場面を演出。大司祭役は登場時は緊張の故の力みに勝った歌声から次第に実力を発揮の伊語歌唱にも通じた経歴的に当日の芯的な存在感を放出の国内での利点は些少とは思いながらも今後の持ち役化を大いに期待。パルマ王立劇場が先行との提携演出は"勘覚"の鈍感を自覚のおそらくは「提携」と言う名の借物との拝察に結果的には帰着の寡聞にして初見と記憶かつ代行者の来日指導との推測ながら人物の機微よりは見方によってはやや虚仮威し的な舞台空間の三次元利用に効用の大仕掛けの装置に特徴とも愚考の決然とした伴奏とは実に対照的に強固な意図よりは経費節減の制約が伝播の終始に正邪の判然としない茫洋感が漂流して衣装では合唱での征服と捕囚の両民族間での無変化に対して独唱での前者の古代的と後者の近現代的との区分は明瞭でも改宗後の次女が父親とは相違の従前のままでは展開の一つの動力源の視覚化が欠落のようにも拝察の上に装置では同じ中東の少なくとも現代の乾燥地帯とはいえ内陸の大帝国の首都と地中海に近い聖地の区別が僅かに「嘆きの壁」と思しき移動装置のみでは字幕での補足説明の対策措置の他は極東の島国の神仏習合信徒には理解の埒外と拝見。若手が統率のピットでは序曲の演奏後や後半開幕の登壇時に早くも掛け声が飛び交う明瞭な伴奏音が聴き慣れた楽団から透明感を創出の大団円での緞帳が降下し始めても拍手を発生させない最終和音まで聴かせる音楽が続いて前夜との比較では入念が増大の"間"よりも弾力感に優れた瞬発力に満ちた好みの問題も加勢のやや波動性に弱くかつしなやかさに欠けたカヴァティーナ的部分よりもカバレッタ的箇所に余りある魅力の麦酒の味覚で言えば「スーパードライ」的な味わいの若さの発露との認識ながら年齢を顧慮すれは加速度的に進化の脳震盪すら心配の一音符一振りにも見える運動量の莫大な動作や時に両手を合わせた祈るような姿の一方でかつての米国人指揮者ばりの台上で跳躍など"見せて魅せる"面でもカリスマ性も垣間見える俊英指揮者の行く末にペラゴロ人生の新たな期待的関心を実感しつつ日没前の繁華街へ向けて劇場を後にしました。
アフターシアターは、劇場で会った知人らと銀座へ移動の「煉瓦亭」で。
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