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東京・春・音楽祭実行委員会「タンホイザー」[演奏会形式・映像付] ~ ヴォルフラムの理性による救済 [国内公演団体]

tannhauser.jpg4月5日・東京文化会館・5階下手E席
今楽季下半期のワグネリアンには随喜と拝察の4カ月間での「ロマン的歌劇三作」の一挙上演、半月間での「タンホイザー」の連続競演、後半2作での外題役に当代を代表の歌手を招聘の注目舞台との三重の意味で実に御同慶の何れの点にも合致の中間作の「映像付」との注記の3文字の趣向を案じつつも通常より1時間半も早い開演時刻を標的に万障を繰り合わせて万全の態勢で平日ソワレの初日へ参戦。前年の本企画の地異事由での痛恨の中止措置を含めて戦時下を想像の燈火管制の世情で一念発起の震災後の初参戦として本音楽祭のマラソン企画を急遽に選択の記憶も鮮明に甦生の中で369日前の同一会場とは隔世の感慨で花見御一党を右手に見送った後にもぎり嬢の「どうぞ、お楽しみくださいませ」とのこれまで寡聞の営業辞令とA5判11折に上る大部の無料総合パンフに迎えられて巡礼のような最上階までの苦難の徒歩行の果てに無事に天井桟敷に辿り着けば板上にはピットをそのままに登壇のような配置ながらコントラバス8本との演奏会形式らしい大編成のオケ席が敷き詰められて彼らこそが往事の「イタリア歌劇団」とは異なって当夜の本当の主役とも思える事実を実感しつつ独唱陣と指揮者の他にコンマスにも外国人を配置の2週間ぶりの序曲は全体の中心点とも言える二重の三部形式の中間部での独奏は独人らしく演奏版にも相応の妖艶感よりも豊穣感に勝った健康美が放出の当夜の基調を象徴の表現とも拝聴の後には偶然にも当夜と前後して興行中の国営歌劇場の再演演目での3年前の新制作時には外題役として熱演の巨漢の主役は幕開けからの離別歌での節を追うごとに確信的な歌唱への変容以外にはピットを含めて洞窟界での男女の別れ話の散漫とも思える展開に先行きへの危惧を雲散の作劇巧者らしい作曲家の目論見に合致とも思える舞台最後方の邦人巡礼団の場内空気の純化とオケ下手後方に布陣の1ダースのホルン隊の派手な立吹による場面一新の効果を挟んで開始のイタオペ派には天恵の脇役総出演的な騎士連一行の到着からの自然界での男達の友情話の顛末に突然の邂逅でも昔年の厚情が伝播の懐旧的な名旋律も含んだ微笑ましい重唱と説得歌での一種の休憩効用の結果なのか主役単身で6人の領主一行に拮抗の重戦車を連想の重唱からの突破力に振り返れば当夜で記憶の一場の男声七重唱で漸くに後続幕への期待感を醸成との安堵の拝聴。初日らしくもトランペットの舞台裏での賑やかな試し吹きを拝聴しつつ30分間の休憩待機を経た前幕後半からの好演感が継続の弾力感と推進力に優れた前奏で幕開けの領主姪役が主役とも言える中間幕は鳥の目からの構築性よりは虫の目的な感興への即応性に優れた一瞬の惰性感も無い音楽の変転が永久運動のように進行の伴奏の下で今度は1ダースのトランペット隊が予告の歌合戦での邦人が担当の中堅役と共に先鋒役の腰掛待機中での筋書の展開に呼応の黙演に演奏会形式を超越の舞台公演の雰囲気を醸成の積極姿勢に好感の前面での道場破り的な外題役に対抗の騎士連は文字通りに三者三様の役柄の性格を自身の役作りで差別化に成功の域と思える本作の原題の後段を担う任務を完遂ながら糾弾場面では肝腎の主役ペアがまさかの男声の燃料切れ、女声の説得力よりは敢えて選択とも推測の呟きのような表現手法に因ってコンチェルタートの頂点感には未踏の充実の一幕での画竜点睛を欠くような結末にやや欲求不満の残念感。再度の30分休憩では偶然の満開時期に遭遇の機会に思い切って初の上野の夜桜見物に繰り出せば白色の常設の街灯と赤色の臨時のぼんぼりが混交の照明効果の故か歩行鑑賞の"横から目線"よりも枝振りに潜り込んだ"下から目線"が漆黒の夜空を背景に薄桃色の花々から放出の妖艶性の初体験に先人の感嘆を追体験の暫時は中欧の吟遊騎士の世界から江戸の庶民の喧噪に瞬間移動の感慨に浸りつつテレビのオペラ中継番組の幕間小休止での風景映像の世界のようにも受け止めて足早に帰参の後は最上階通路の窓から正面の小部屋の打ち上げ用と思しき2ダースのシャンパン瓶も視界に収めて最終幕の拝見に気分一新。本作の疑似三角関係の3人中では役得も加勢の当夜の出色とも言える低声歌手は眼鏡姿に象徴の終始に理知的な歌唱を披露の主従の登場場面での歌謡性に優れた独唱曲は低速で音信不通だった旧友に噛んで含むような説得を充分に意識の丁寧な歌い回しでの表現に因って後続の重唱部を含めてイタオペ的な音楽美の創出の立役者として以降も機能の後には最後の見せ場でも同様な傾向に立脚の下世話ながら映画「ルートヴィヒ」の人工洞窟の場面を想起の孤独かつ夢想の国王との二重写しが脳裏に浮んで客席に息を呑ませる端正な詩情感を場内に充満化の佳唱によって"ローマ語り"では力みは抜いているものの指揮者の指示なのか田舎くさい程の芝居っ気に却ってイタオペ派には長尺の一人語りを飽きずに拝聴の時に不器用な力任せの激情的な歌唱で対峙の主役とは好一対の対照、彼らの相手役は登場の独唱は不発に終わるものの後続の二重唱からは控え目な歌唱に依りつつ主役級の位置付けよりは重唱の一翼を担う貢献とも拝聴、さらに領主役は自身の主要幕での3回の聴かせ所では姪との面会場面での庇護者の慈愛、歌合戦の開会挨拶での為政者の貫禄、大詰での審判者の威厳との公私三態の歌い分けにオペラ歌手としての力量を実感。懸念の「映像付」は概して場ごとに変化の絵画の投影によって遠目には洞窟内の流水以外は「画像付」が正確とは思いながらも背景幕の代用と捉えれば視覚上の説明としては効用充分と理解の一方で字幕は3年前の「ポッペア」の先例を想起の横書きながら映像の上に効果的とも思えない字体・大きさ・配置・斜度での演出的な映写の故に本作の人間と宗教の本質を問い掛けの奇蹟譚の性格との違和感と共に専ら聴覚のみでの作品理解には無用な視覚的雑音とも拝見。やや存在感の薄い代役豊穣神役が舞台に残留の中で等閑にも見えた指導者が御膳立ての大詰の合唱は音色上での透明感と表現上での敬虔感に溢れてローマ帰りの贖罪集団の内面と共に一巻の読み切り感を濃厚に放出の作曲家の巧みな作劇術を当夜の形式風に再現して遠くは無料配役表で賑々しく宣伝の向こう5年間の「ドイツ楽劇団」への遠望と同時に近くは急遽に楽日への再訪を検討課題としつつ劇場を後にしました。
  「春宵に森羅万象息ひそむ」 昭成
アフターシアターは、上野でのソワレ救済店の「厳選洋食 さくらい」で。
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