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新国立劇場「オテロ」(1回目) ~ こんな「オテロ」に誰がした [新国立劇場]

otello1.jpg4月7日・新国立劇場・4階正面C席
桜前線到来の週末の暇つぶしとして2年半前の新制作時の外題役が"上野のワーグナー"で滞日中との奇遇と共に前回での夫人役を筆頭に"オテロ・トリオ"の好演の記憶も想起しつつ国際事情のリーマン・ショックと国内状況の大震災を画期に今後のペラゴロ生活ではもはや再来は望み薄な佳き時代への懐旧感に加えて贔屓作の故の出来具合いへの危惧感も入り交じりながら5回上演の再演の3回目へ参戦。果たして再演担当の創作意欲か出演歌手または劇場諸部門からの要望かは不明の上に業界慣行にも不案内かつ演出家との意思疎通の状況も未確認ながら稽古日程の制約は承知しつつも結局は4回を拝見の楽季開幕を飾った前回との比較では敵役の「狩猟本能」を展開の軸に据えた演劇畑出身で銀幕界でも活躍の伊人演出家への背信にも思える改竄が散見の"蜘蛛の巣運河"の再登場に愕然の一目瞭然例は旗手役のクレド場面での上官居宅の壁面に苔色塗料で手書きの十字架は前回の同名役の旧教信徒と推測の伊人らしい明瞭な筆致から一変の中近東出身との"正教会系"教徒と推測の故か縦横の両線の長さがほぼ同一の十文字と言える変形描画と書き順の相違に本作の名場面と定評の自身の見せ場での状況設定に無顧慮な行為に唖然としつつ表情と所作に「善人の顔をした悪人」では無く信条場面以降から深化の無声映画での「ノスフェラトゥ」をどうしても連想の直立姿勢での頭部傾斜と生気喪失の眼差しを伴った時に歩幅の狭い足取りの狂人化が進行の勇将に対峙の敵役の矮小化と共に第3幕の幕切れの前回での横臥の将軍の枕頭から最後の名台詞には舞台前面での聴衆への大見得に続く悠然の上手奥への移動と閉幕直前での失神の上官に向けた慇懃無礼な一礼との後期ヴェルディの豪壮伴奏に見事に合致の伝統的な推移ながら一連の立ち位置の変更によって視覚上の変化に加えて獲物の討ち取りのみが目的の狩人本能の発露行動にも適合の得心の大詰処理から変容の今回は何故か後奏では大使を接遇の将官夫妻の椅子のうちで夫人用を一気に後ろ倒しの後に将軍用に着座への行動変更に因って顛末の原因が敵役の出世心とも思える翻案演出の移植には歌手の自発的表現の許容も含めて憤懣の一語。さらに伴奏は前回の天才肌の伊人から職人的な英人に変更の結果として聴き進むうちに思わずにモーツァルト作品を連想の楽譜の縦線を重視の合奏の正確性と緻密性が前面に突出の一定の枠内からは絶対に逸脱の無い内向性、第3幕の前奏が好例の天井桟敷まで指揮者の唸り声が時折に到達の割には音楽自体は時に展開とは全く無縁にも聴こえる実に理性的で感情表出の稀薄な客観性、ヴェルディの晩年2作で定評の出色の台本に立脚の雄弁なピットと演劇的な板上との対等関係よりは"声唱器随"とも言える中期以前の作風と同様な伴奏役割に徹した後方支援性の特徴にイタオペでの音楽的な安定感に溜飲を下げた諸兄姉も存在とは思いつつも好みの問題ながら反面で本作の醍醐味を相当に封印の方針に後半に比重の緩徐場面では奏功の一方で例えばオペラ史上随一とも言える開幕合唱での爆発力、プッチーニへ後継の相聞二重唱での幽玄性、混声合唱での伴奏楽器を模した律動感、主従両夫妻の四重唱での起伏性、盟約二重唱での破壊力、外題役の愛妻喪失独唱での懐古感、夫婦不和重唱での夫人の絶望独唱への同情性、コンチェルタートでのロッシーニから連綿と継続の無伴奏的な心情吐露の多重唱から全員総出的な音響の大伽藍に至るオペラの醍醐味の一頂点の場面とも言える地を這うようなオステナートから落涙旋律がうねるように全開の高揚感を形成の構築力とその頂点での豪壮性の何れもが喪失の整序の伴奏には傑作の十全な再現には未到のままに欲求不満の拝聴。独唱陣では昨楽季の「コジ」での被災地への勇躍の代役来日の記憶も想起に加えて興行事情には不案内ながら実に慶事の3年前のヴィオレッタと全く同一の配役変更で登壇の夫人役は登場から瑞々しく清楚な声質と伸びやかな節回しによって当日の"天使"とも言える救世主として弱音も実に鮮明に数十メートル先の歌声が数メートル前に聴こえる声楽家らしい発声ながら全般的には総じて感情表現に平板の中でも第3幕前半でのヴェルディ節が魅力の落涙旋律の表出には小振り感を感受の一方で最終幕は独壇場として祈祷歌は静寂の中で一途に家内安寧を祈願の純真無垢な心情が聴く者の心の襞に沁み入る歌唱で当日随一の一場を創出とも受容、その侍女役はコンチェルタートでの望外の生彩感の頭抜けた強声、最終幕では事件発覚場面でのヴェリズモ物とも錯覚の緊張の一場を創出の少なくとも邦人最強の同役として傾聴。難役の外題役は前回でのヘルデン歌手の不器用かつ不安定ながら演出家の直接指導の下での役柄の愚直な性格を体現の登場時には体躯と同様に勇将為政者の圧倒的な存在感から本作名物の注目の第一声は準備不調とも思える不発ながら再登場時の強声から以降は他の歌手陣との対峙になお勝る強靱さには未到でもスピント歌手として慰労に相応の歌唱、その配下の旗手役は前回での台詞の一語一語の吟味が伝播の上に痩身での行動の敏捷性も加わった堕天使的な知性を感受の本作の狂言回しとして作曲家が当初は外題役に設定との逸話にも納得の好印象から狂人的な所作は脇に置いても騒乱説明での開口の神妙さ、浮気暗示での上官を立腹に誘導の迂遠さ、物証提示での相手の現認を確実化の狡猾さ、将官悶絶での展開上の決め手の台詞への無思慮に聴こえる歌唱に面従腹背の事実上は主役にも等しいオペラ史上で稀代の悪役としては論外な主役の近習との印象に留める単なる謀反人の領域での存在に落胆、男声脇役陣では副官役は本役に期待の優男的な突き抜けるような明るい声質に不足の歌手本人と言うよりは配役決定権者の舞台効果への視座の発露とも愚考の一方で大使役には役不足とも拝聴の相対比較として将軍役よりも堂々の歌唱と体躯から醸成の本国の貴族文化を体現の威厳と風格を具備の上意伝達役としての役柄を実感の存在感に刮目。当日の出来映えの天使と悪魔が明瞭な二元的な感慨に前者への外題役の絞殺心理に得心しつつも贔屓作の魅力には抗し難く内心は複雑なままに歌手間で起伏の少ない客席の反応を確認して劇場を後にしました。
アフターシアターは、劇場で会った知人と喫茶となって手近に「エクセルシオール カフェ 東京オペラシティ店」で。
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