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新国立劇場「ローエングリン」(1回目) ~ "神前興行"のようなオラトリオ感 [新国立劇場]

lohengrin1.jpg6月4日・新国立劇場・3階上手D席
今楽季の主催劇場での最後の洋物に4カ月間での作曲家の聖地音楽祭で演目化の楽劇以前の中期3作を俄かワグネリアンとして集中体験の好機のいよいよ最終作への頂点感も抱きつつ諸事調整の上で本劇場には2カ月ぶりに平日マチネの2回目へ参戦。直近演目の「ドンジョ」と同様に同名役で既に檜舞台に出演の外題役歌手を一枚看板に起用の販促活動の大作ながらも目視の範囲ではほぼ空席の平土間後方の下手区画に加えて精妙な前奏曲から早くも有料パンフの紙捌き音、足元の荷物移動音、隣席婦人との私語、早々のまどろみなど平日マチネの現状を再認識しつつ第3幕への前奏曲での私語制止音、本作展開上での頂点とも思える禁問破りの聴衆注視の静寂場面での病院の待合室とも錯覚の客席各所からの咳や咳払いには微笑ましさすら湧出。8カ月前の南独からの来日公演での同一役で好演の巨漢とは一面では対照的に登場までの発端の筋書展開の後に喧噪場面から場内の空気を一変の客席までも含めた俗界の人間たちの"待ち人来たる"の蝶々夫人との両性での双璧とも愚考の作曲家一流の音楽的演出に乗じて吊り籠に搭乗の客席に背を向けた開口時には思いがけずも出自ではザラストロの光王国を継受のタミーノの末裔を連想と同時に声質では教会の少年合唱隊と相似の三人童子の成人型とも想起の神性具有者らしい世俗から乖離の当代無二の第一声に加えた空中からの出現での異界効果は絶大。相手役は冒頭幕での一本調子で不安定な歌唱から休憩を挟んで自身の幕とも言える第2幕での花嫁姿での登場からは本領発揮と思える唯一神と古代神との自領を巡る宗教戦争に翻弄の悲劇の大公女を名実ともに圧倒的な存在感の新郎役の庇護下で影が薄い新婦ぶりを披露。情景描写を一手に担当の伴奏は老練指揮者が英雄の悲恋を綴った絵本をじっくりと読み聞かせるような楽譜に精通の語り口によって稲作民族のオケらしく気宇壮大や豪壮華美や粘着執拗や振幅剛胆とはほぼ無縁ながら高揚形成への自然な運び、場面内容に応じた音色変化、舞台進行を引き立てる舞台との一体性との観点ではオペラ伴奏として成立の敢闘。美術は偶然にも今楽季の開幕公演の同国人と同様に旧同盟国での上演への配慮による異文化人の発想に根ざした日本文化を連想の趣向が混入とも拝察ながら視覚的には竹に木を接ぐような違和感が増幅の第1幕は4カ所に配置の畳形状の一畳大と半畳大の照明管入りパネルを10枚程も積み上げた上に鎮座の国王とその脇に起立の伝令役にはカナダ帽に似た髪型と丹前を纏ったような出で立ちの牢名主と腰巾着との関係を想起の構図、第2幕の婚礼場面での女声合唱陣の熨斗風の髪飾りは色使いから遠目には祝儀と不祝儀との2種に見えて悲劇の結末も暗示かとの精一杯の解釈、男声合唱陣の黒色の清朝帽子は前頭から頭頂を経て後頭を結ぶ太い白線に因って赤穂浪士の討入場面を連想の群像と拝見、第3幕では深海の海月を連想の3基を配置の折紙風の巨大な装置には御節介感も湧出の落胆以上に肝腎の照明は曖昧な色調による主役の登場には白鳥、第1幕の幕切れでは花火、妖術には紫煙と才気を微塵も感じさせない平凡なネオン照明に全くの拍子抜け。再訪を予定の次々回では主役の歌声の再聴のみを期して薄暮の俗世へ劇場を後にしました。
アフターシアターは、最寄駅線との乗り入れ線で足を延ばして「レストラン 七條」で。
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