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新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」 ~ 千変万化の長丁場 [新国立劇場]

dongio.jpg4月27日・新国立歌劇場・3階下手D席
2週間前に続いて週末の暇つぶしとして「大型連休前半三連戦」の初戦に主催劇場の第2代芸術監督時代のソプラノ歌手を彷彿の今回来日中に外題役の100回達成との慶事も販促材料に加味の一枚看板扱いのバリトン歌手を見物の機会にモーツァルト枠での3年半ぶり再演の5回公演の4回目へ参戦。果たして注目の外題役は5カ月前の米国の舞台映像での全体印象と同様に当夜でも従者変装アリアが真骨頂の抜群の運動能力を顕示の切れ味の鋭利な動作で舞台を縦横に小気味よく移動しつつも農民を翻弄の眼力に優れた表情とはまり役らしい安定の歌唱によって本役よりはむしろ従者役として天下一品との確信をさらに強固の出来映え、対する貴婦人役はオクタヴィアンを連想のズボン役に相応しい颯爽の登場場面でのやや乾質な歌声から後半幕の詭計の逢引場面での懸想相手との大願成就に見せる女性らしい湿感の裏返しとも言える見せ場の献身決意アリアではアコンパニャート部でのオケが保たない程の遅速での緊張感を醸成の一方でアリアでの中間部との対比感はやや薄弱ながら母性本能の発露のようにも見える天使の境地とも感受の中性的な存在感を経て大詰五重唱での短尺ながら主役の想い出を胸中に尼僧生活を暗示の未亡人にも似た女性らしい湿潤な歌唱へと筋書を反映の本作の登場人物で最も変転の内心変化を良く表出、対する高声騎士役は4年前の「椿姫」と同様に絶不調でのか細い声量とひ弱な声質のままに許嫁からの全幅の信頼を獲得できない大望の先送りも首肯の大団円での唯一に自らの現実に悶々の本作で最も悲劇的な存在と精一杯の解釈、対する令嬢役は主役の姦淫を実証とも類推の当夜には場違いな程の艶妖感に俄然に傾聴のこれら貴顕組への無彩色風の照明が効果的な四重唱では立ち位置もあって「ボエーム」の二重の二重唱を連想の立体感に溢れて続くアリアのプリマ役は低音は掠れて声質はやや貧弱なものの自家薬籠中とも言える黒衣もあってか表現主義映画の役作りを連想の"聴きもの"と言うよりも"見もの"に近い夜女を想起の劇唱によって予想外の前半の白眉の時間として拝見。伴奏では序曲は偶然にも当月前半での「オテロ」と共にベネチアに設定変更ながら運河の澱みを連想の重たいピリオド的奏法では初経験の強弱と緩急のみが変化の生気喪失の平坦的な音楽に落胆ながら後半幕からはオペラ公演では時折に遭遇の休憩で一変の当夜は指揮者の督励の有無は不明ながら「奇跡の25分」とも言えそうな聴衆には天恵の時間が過ぎて悪漢主従二重唱の会話から別物のように舞台に生命感が醸成の到達点として地獄落ちの場面では前半の見せ場のアリアで"カタログ"に記載の女性連を生き生きと描写の海外劇場と契約中との邦人若手の従者役が終盤では時折に燃料切れながらもオペラ史で有数の演出上の見せ場での聴衆の耳目が舞台中央の主人に集中の状況下で上手端の装置脇で終始に眼前の亡霊に総毛立つような恐怖心が全身から放出のパパゲーノを連想の庶民感覚が横溢の演技を実見しながら本場の勧善懲悪譚としての迫力の構図での絵本を愉しむような感覚を初実感の立役者とも愚考のオペラ歌手としての適性を感受の今回公演ではやや年長と思しき主役からの助言機会も利用の声域的にも今後の頭角と末永い活躍に関心と期待。カーテンコールは12月からの再演5連発での参戦公演の中では最多の掛け声との想定外の出来映えに赤縁眼鏡の目立つ新進指揮者のほぼ全ての楽団員との手振りを含めた視線挨拶を遠望して納得の出来映えに満悦と慰労の表情とも拝察しつつ"蛇頭竜尾"の紆余曲折の一夜を振り返りながら劇場を後にしました。
  「右左古都我がものに春疾風」 昭成
アフターシアターは、降雨を避けて手近に隣接ビル内の「面影屋珈琲店 東京オペラシティ店」で。
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