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日本舞台芸術振興会「バルバラ・フリットリ ソプラノ・リサイタル」[Aプロ] ~ イタオペとリートの狭間 [リサイタル]

frittoli1.jpg1月26日・東京オペラシティ・3階正面A席
半年前の旧帝国陸軍の体質と酷似の国策会社と監督官庁の失態に由来の若輩の後塵にも等しい本人にも聴衆にも無念の強制配転の記憶も新たに東京での2回の独唱会のまずは初回へ参戦。当夜は前半のリート、後半のイタオペ曲との明瞭な2部構成に依ってオケ伴奏では通例の幕開けに配置の序曲の代替としての作曲家40歳余の「サロメ」の有名舞曲では絢爛ながら小綺麗感が前面での本曲の魅力の妖艶感に欠如かつ表題に合致の音色と描写の変化の味わいにも欠乏の出来映えに加えて冒頭曲としての位置付けにも居心地の悪い選曲に後続曲への露払い的な観点からやや親和性が強固ながら「ばら」の大詰三重唱のオケ編曲でも相応と愚考の反面で後半冒頭のバレエ曲に相対して片や出世作での外題役歌手の舞踊を想定の原曲、片や最晩年でのバレエ場面の挿入への追加曲との相違の上に作曲年は世紀の変わり目を挟んで僅かに10年足らずの共に中近東の芳香を放出の7つの舞踊に好対照感も抱きながら拝聴しつつ歌手本人の意向とも聞く最晩年の"自画像作曲家"らしい生涯を回顧とも飛躍の発想の連作歌曲は残念ながら独語的な発声が予想外に脆弱の中で第3曲から一変の本領発揮的な人生の秋を情感豊かな表出に伴奏も前半との比較の上では見違えるように同調のコンマスとの対面の歌唱での大看板歌手らしい詩情が沈潜の世界の再現に続いて最終曲も継続の雰囲気を醸成ながら劇場で会った知人曰く「彼女が歌うべき音楽は別にある」との指摘に同意の作品を大きさを増幅させる至芸を享受の感銘は抱けずに「リートの歌姫」との認識には未到の領域と拝聴。客席の諸兄姉の多数も同様と勝手に推測の不完全燃焼の休憩を経てオケ曲との交互登壇の僅かに3曲ながら期待のイタオペの部ではリートの部と同様に「オテロ」パリ版のバレエ曲が選曲の同国人作品への親和性の故か小気味良い伴奏音の上に歌謡性に優れた音楽に当夜の目当ての後続曲への期待感を醸成のお膳立てに続いて「トロヴァ」でのレオノーラの登場のカヴァティーナでは当夜で唯一のカバレッタで繰り返しの省略が何とも恨めしくも自家薬籠中の"地に足の着いた"または"水を得た魚"然の貫禄の歌唱と堂々の姿勢での歌姫の降臨に客席は漸くに前半の耐乏の末に惹起の爆発的な万雷拍手で熱烈歓迎の意思表示、興奮の中で開始の「アッティラ」の前奏曲は楽想の特質から"オケ版アリア"とも言える程に歌謡性が一段と増幅の後に「シモン」でのアメリアの登場のロマンツァでは伴奏の角張った水面表現が耳障りながらも完全終止感の希薄な名刺代わりの一節にも似た短曲への地中海の海原を連想の旋律線を大きく見せる技量と豊穣な声量での確信に満ちた歌声に中期ヴェルディ以降のイタオペでは当代の第一人者を再確認の故に却って客席に欲求不満感も発生とも推測、早くも最終部の「運力」の序曲は耳タコの接続曲での40代としては引用旋律への味わいには欠乏ながら委細に顧慮の無い終結に向けた威勢の良い開放感を緊張の弛緩時間として利用の後には同曲でのレオノーラの見せ場のアリアでは当夜の掉尾に相応しく自信の大曲を配置の役柄の境遇を思わずに想起の前曲が前座曲にも思える絶好調とは思えない中での圧巻の出来映えに帳尻を合わせた見事な選曲と歌唱にも圧倒の感慨と同時に昨年の非常事態下での遭遇場面の回数には相違と推測の本作2興行の中止顛末も待望での贔屓作だけに恋々と脳裏に浮上。熱狂の聴衆へのアンコールは6日後の"ヴェリズモの巻"に繋げるようなリューの臨終独唱のみとなって十八番曲での名唱とはいえ2年半前の前回の独唱会でのモーツァルトとイタオペのアリアを繰り出しの印象の満腹感に対して当夜の腹八分程度と思しき聴衆の興奮も客電の点灯を合図に鎮まって半年前の雪辱戦に淡い期待のエリザベッタの有名アリアは前回に披露の故に予告どおりの後半以降のイタオペ4曲で「1曲に付き3千円也」との収支の戯言も脳内を巡りつつ次回の未知の前半曲と既知の後半曲での感銘度合いも案じながら劇場を後にしました。
アフターシアターは、会場で会った知人らと定番の階上の「叙々苑 東京オペラシティ53」で。
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